酷く静かな夜だった。
どうにも寝つけなくて、蒼司はおもむろにベッドから身体を起こす。床へ就いてから入眠までに時間がかかるのもいつしか慣れてしまったけれど、眠りたいのに眠れないというのは、やはりなかなかつらいものがあった。
こういうときには、なにか温かいものでも飲んでみようか。それで眠れるかどうかはさておき、リラックスくらいはできるかもしれない。そう思い立ち、蒼司はベッドから這い出る。そしてできるだけ物音を立てぬよう、そろりと部屋を抜け出した。
途中でキッチンに立ち寄り、ホットミルクを拵える。マグカップに牛乳を注ぎ、それからほんの少しの蜂蜜を落として、くるくるとかき混ぜて。電子レンジで熱を加えれば、ほこほこと柔らかな湯気が立ちのぼった。
深夜のラウンジは、当然ながら真っ暗だ。暗がりの中、蒼司は片手間にスイッチを探って、ぱちりと部屋の明かりを灯す。そして空いた席のひとつに深く腰かけた。
温かなマグカップに、蒼司はそっと口をつける。ほんのりと甘い液体をゆっくり嚥下するたび、食道から胃へとぬくもりが落ちていくのを感じた。マグカップを机に置き、ほう、と息を吐く。
(眠いな……)
背もたれに軽く身体を預け、蒼司はふと瞼を閉じてみた。耳に届くアクアリウムの水音が心地よくて、今ならすんなりと寝つけてしまいそうだ。けれども部屋に戻れば、またきっと同じようにうまく眠れないのだろう。
ベッドの中で朝が近づいていくのをただ待つだけの時間は焦燥感に苛まれるばかりで、時が経つごとに心が疲弊していくものだと、蒼司は経験上知っている。だがたとえ眠れたとしても、あまり良いとはいえない夢を見てしまいがちなのは困りものだった。
眠い。寝たい。眠りたくない。それでも眠らなければ、倒れてしまうかもしれない。――また迷惑をかけてしまうかもしれない。矛盾した欲求と得もいわれぬ不安感が、毎夜のようにぐるぐると内側を渦巻いている。
すると不意に、小気味よく響く足音が聞こえた。蒼司は瞼を開き、音のほうへと視線を遣る。
「……あれ、蒼司まだ起きてんの?」
「それはこっちの台詞だ」
にこりと笑みを浮かべながら、拓斗が静かに近づいてくる。「隣いい?」と尋ねてきた拓斗にどうぞと促せば、彼は傍らに杖を置き、それから蒼司の隣の席へと腰を下ろした。
少しだけぬるくなったホットミルクを、ひと口ばかり飲む。温度は下がったとはいえ、心を落ち着かせるその味は変わらない。ことり、とマグカップをもとに戻したところで、蒼司は先ほどから感じていた視線の先に目を向けた。
「……なに。お前も飲みたいの?」
「うん。蒼司が飲んでるの見たら、おいしそうだなーって」
「仕方ないな。なら、作ってきてやるから」
「いいよ、別に。蒼司のちょっとちょうだい」
立ち上がろうとして、すぐに拓斗の声に引き止められる。僅かに浮かせた腰を戻し、蒼司はため息を零した。
昔は拓斗と回し飲みをするくらい、なんてことなかったというのに。自分ばかりが変に意識しているようで、どうしようもない。けれども改めてキッチンへ向かうのも、面倒といえば面倒だ。そう思うようにして、蒼司は机上のマグカップを拓斗に向けてそっと動かした。
「……ぬるくてもいいなら、まあ……いいけど」
「やった。ありがと、蒼司」
嬉しそうにマグカップを受け取った拓斗は、そのままぬるいミルクに口をつけた。おいしい、と更に拓斗が頬を緩めたところで、マグカップは蒼司の目の前へと返ってくる。だがそれをまたすぐに飲む気にはなれなくて、蒼司は受け取ったマグカップを再度机へと置いた。
「眠れないときはさ、ただゆっくり目を瞑ってるだけでもいいんだって」
「……なんだよ、急に」
「だって蒼司、眠れなかったのかなって思ったから。……まあ俺も、なんとなく目が冴えちゃったんだけどさ」
お揃いだ。そう微笑みながら呟いた拓斗の指先が、不意に蒼司の頬へと触れる。慈しむように指の裏で撫でられ、思わず目を細めた。
「俺の気のせいだったらいいんだけどさ。蒼司、最近なんか疲れた顔してるような感じがして」
「……拓斗の気のせいだろ」
「うーん、そうかなあ。……あ、そうだ。子守唄でも歌ってみよっか。そしたら蒼司も、いい感じに眠れるかもよ?」
「いい。いらない」
「そう? 残念」
言いながら、拓斗の手がそっと離れていく。若干の名残惜しさを感じながら、蒼司は躊躇ったままだったマグカップの残りに口をつけた。すっかり熱を失ったミルクは、ほのかな甘さだけが残されている。心なしか先ほどよりも甘く感じる液体を流し込んで、そっと息を吐いた。
ホットミルクのおかげか、はたまた拓斗と話したからだろうか。このまま眠れるかはわからないものの、心は幾分落ち着いたように思う。ただ、今はもう少しだけ部屋に戻らないでいたいと感じていた。なんとなく拓斗と離れがたいという、ただの我儘だ。
そろそろ戻ったほうがいいかな。そう何気なく呟いた拓斗に、蒼司はおずおずと手を伸ばす。緩く服の裾を掴めば、拓斗は僅かに目を開いたあと、すぐに口角をにっとつり上げた。
「なに、蒼司。俺が部屋戻ったら淋しい?」
「……別に、……」
「いいよ、もうちょっと一緒にいよっか。でもあんまり遅くなるのもな……」
拓斗は少しばかり逡巡したのち、「そうだ」と声を上げる。そして蒼司にそっと顔を寄せたかと思いきや、そのまま耳元で囁いた。
「それならさ、俺の部屋おいでよ。一緒に寝よう?」
「は……!? 一緒に、ってお前、ここ……」
「大丈夫、なんにもしないって。ていうか俺が、蒼司抱きしめて寝たいだけ。……なあ、ダメ?」
甘く響く声でそう許しを請われてしまえば、今更拒絶できるはずもなかった。蒼司は耳の先まで朱に染めながら、静かに頷く。やったと喜ぶ拓斗につられるように、蒼司もまた笑みを浮かべた。
深夜のラウンジをあとにして、ふたりは拓斗の部屋へと向かう。揃って潜り込んだベッドは、男ふたりで横たわるには随分と狭かったけれど、抱きしめあって眠るのだからそれほど気になりはしなかった。
その夜、蒼司が普段よりもずっと心穏やかに眠れたのは言うまでもない。