その手を、離さないでいて

四限目の終了を知らせる鐘の音が、星奏学院の校舎に響き渡る。ようやく訪れた長い休み時間に弛緩していく空気の中、蒼司は昼食を片手に、ひとり木蓮館へと向かっていた。というのも木蓮館は普段、スターライトオーケストラの関係者以外はあまり立ち寄らないのだと聞き及んでいたからだ。
  それなりに生徒数の多いこの学院で、他人から変に騒がれずに食事がとれる場所は、なかなか貴重である。遠方からオケに参加しているメンバーは皆、横浜滞在中は星奏学院にて特別授業を受けており、蒼司もまた例外ではない。学院での授業がある日は木蓮館にホルンを置いていることもあり、昼休みはそこで過ごす機会が多かった。
  昼食のついでに、軽く練習でもしていこうか。現在の練習曲で気に掛かる箇所があった蒼司は思案しながら、木蓮館のある森の広場を通り抜けようとする。だが不意に、誰かを取り囲んでいる女生徒たちの黄色い声が耳に届いた。常であれば即座に素通りする光景のはずなのに、今の蒼司の目は彼女たちのいる地点を捉えてやまない。なぜなら輪の中心にいたのは他でもない、幼馴染かつ交際を始めて間もない関係にある赤羽拓斗、そのひとであったからだ。
  蒼司から幾分離れた位置にいる拓斗は、なにやら彼女たちとにこやかに談笑しているらしい。朗らかで人好きする性格の彼は、男女問わず誰とでも早々に打ち解けてしまう。当然のように友人も多く、同時に彼へ想いを寄せる女性も一定数存在しているようだった。
  学院の生徒らにとっても他校生が出入りするのは未だ物珍しいようで、今までにも何度かこうした状況を目の当たりにしたことがある。正直なところ、見ていてあまり気分のいい光景ではないのだが、なぜだか見かけるたびに足を止めてしまう。
  幸い、拓斗はまだこちらに気がついていないようだった。ならば今のうちに立ち去るべきだと、蒼司は自身の足をなんとか奮い立たせる。そして彼らの輪を視界の外へと追いやって、そのまま重い足取りで木蓮館へと向かった。

  それから数日が経った、とある放課後のことだ。
  この日、スタオケの活動時間は個人練習へと充てられていた。蒼司はいつものように木蓮館へと向かうべく、森の広場に足を踏み入れる。すると木漏れ日の合間からちらりと覗く、見慣れた明るい髪に気がついた。きっと彼も、今からこの辺りで練習をするのであろう。そう思った蒼司は、練習前にひと声かけていこうと考えた。
  だが口を開こうとして、すぐに思いとどまる。声を発するよりも先に彼が――拓斗が、誰かと一緒にいることに気がついたからだ。普通科の制服を着た、少し背の低い学院の女生徒。栗色の綺麗な髪をふたつに結わえた彼女は、遠目に見ても可愛らしい顔立ちをしているのが分かる。僅かに見えた頬はほのかに朱く染まり、緊張からかどこか落ち着きのない様子が見て取れた。
  拓斗が女生徒から告白を受けていることなど、誰が見ても一目瞭然だった。優しい拓斗のことだ、きっと彼女の語る想いにも真剣に耳を傾けるのだろう。決して拓斗が信じられないわけではないし、そもそも彼の女性受けの良さも今に始まったことではない。けれども蒼司にとっては、到底直視しがたい光景であった。無意識のうちに唇を噛み、その場から逃げるように木蓮館へと駆け込む。
「……あれ、蒼司くん?」
「っ、朝日奈さん。いたんだ……」
  木蓮館のエントランスにいたのは、スタオケのコンミスを務めている朝日奈唯だ。彼女はかたちの良い目を丸くしながら、小首を傾げている。唐突に蒼司が駆け込んできたのだから、至極当然の反応だろう。そんな蒼司になにを思ったのか、唯はそっと傍らへと近づいてきた。
「……もしかして、なにかあった?」
「いや、……大丈夫。なんでもないよ」
  心配そうに顔を覗き込まれ、蒼司は咄嗟に笑みを貼りつける。関係のない彼女を巻き込みたくはないし、それ以上に余計な詮索をされたくはなかったからだ。だが唯は少しばかり逡巡したのち、「それならいいんだけどね」とすんなり引き下がった。
  蒼司の様子がおかしいことなど、妙に聡いところのある唯には多少なりとも見透かされているに違いない。我らがコンミスは、どこかそういう人だった。それでも深くまでは追及してこない唯の思慮が、今は酷くありがたい。蒼司は内心安堵しながら、練習室へと駆け上がった。

「ふう……」
  個人練習もひと段落したところで、蒼司は軽く息を吐く。ホルンと向き合っている間は拓斗について考えずに済むためか、普段よりも深く集中してしまっていたようだった。練習室の窓を開けると、柔らかな風がふわりとカーテンを揺らす。木々の向こうに広がる空はすっかり赤々と燃えていて、カラスの親子が仲睦まじげに飛び去っていった。
  現在時刻を確認しようと、蒼司は制服のポケットからスマートフォンを取り出す。ディスプレイに表示されているのは、マインの通知が二件。おもむろに端末のロックを解除し、そのままマインを起動する。届いていたのは、いずれも拓斗からのメッセージであった。
『蒼司、いま練習室?  俺は広場で練習してたとこ。もうすぐ下校時刻だし、一緒に帰ろうよ』
  数分前に送られたらしいメッセージには、愛くるしい動物のスタンプが添えられている。うきうきと弾むような感情を伝えてくるそれは、拓斗がよく使うスタンプのひとつであった。
  普段の拓斗と蒼司は別々に帰る日もあれば、待ちあわせて帰る日もある。どうせ帰る場所は同じなのだから、わざわざ待ちあわせて帰る必要性がないといえばそれまでだ。だが蒼司としても、拓斗と並んで同じ道を歩く時間に悪い気はしない。まだまだ知らない場所が多くあるこの土地を「散策」という名目で寄り道するのは、拓斗とともに帰る日だけの特権だった。
  とはいえ、それは常日頃の話である。あのような現場を目の当たりにしてしまった手前、今はただ拓斗に会いたくない気持ちがすべてを上回っていた。他のひとを見つめる視線への苛立ちも、得もいわれぬ焦りも、全部。胸で燻るこの感情は、どう見積もってもあからさまな嫉妬でしかない。
  初めはただ、拓斗の傍にいられるだけでよかったのに。想いを伝えあい、結ばれるつもりなど微塵もなかったというのに。拓斗との交際が始まったあの日からずっと、蒼司は自身がどんどん欲深くなっていくのを感じている。いずれ彼を手放せなくなる日がくるのではないかと、そう考えるだけで胃の中から酸が込み上げてくる。こんなにも深く執着してしまっている事実を、首元に突きつけられているかのようだった。
  蒼司は一度スマートフォンをしまい、手早く帰り支度を済ませる。そして戸締りまで済ませたところで、再びディスプレイを見つめた。
『やめとく』
  たった四文字の短い拒絶。蒼司はそれを素早く打ち込み、送信する。拓斗がメッセージに気がつくよりも先に、早くこの場を去りたかった。校舎に響く鐘の音を背後に受けながら、蒼司は足早に学院をあとにする。胸を刺す鈍痛から、必死に目を逸らすようにして。

  菩提樹寮内に宛がわれた自室へ辿り着いた頃、蒼司はようやくひと息ついた。恐る恐るスマートフォンを確認すると案の定、あのあとすぐに送信されたと思しき拓斗からのメッセージが数件届いている。『なんで?』『どうしたの?』『なにかあった?』などという疑問たちと、焦りや悲しみを伝える幾つかのスタンプ。ディスプレイに表示されたそれらを指先でなぞりながら、蒼司は僅かに息を詰めた。
  拓斗が純粋に心配してくれているのは、目に見えて明らかだ。だがそれも、当然といえば当然だった。なぜなら普段はさほど誘いを断らない上、たとえ断るとしても何かしらの理由を添えていた蒼司が、理由も何もなく断りを入れたのだから。けれども今更返信したところで、何になるというのか。蒼司はマインを閉じると、そのままスマートフォンを机上へと置いた。
  そうこうしているうちに、菩提樹寮にも夕食時が近づいてきたらしい。ほんのりと漂ってくる香りが食欲を擽って、否が応でも腹の音は鳴る。頃合いを見て食堂へと足を向けると、同じく部屋から出てきたところらしい拓斗と目があった。蒼司は思わず眉を顰め、しかしなにかを言うわけでもなく、すたすたと夕食を取りに向かう。今日のメニューはライスとビーフシチュー、それから付け合わせのサラダだ。
  いつものように食堂の隅に座ってしまえば、あとはもう黙って食事をするだけだった。広い食堂の中、蒼司がひとりで食事をするのは特段珍しい光景ではなく、今更誰かに追及されることもない。ただ拓斗だけは別で、終始もの言いたげな視線を投げかけてきていた。けれども敢えて気づいていないふりを貫いて、蒼司は早々と夕食を済ませて自室へ引き下がったのだった。

  どうにも手持無沙汰で仕方がない。
  部屋に戻ってくるなり、蒼司は何気なく机へと向かっていた。手近なテキストでも開いておけば、自然と意識もそちらへ向かうだろう。そんな安直すぎる考えからの行動だった。だが開いたままのテキストと白紙のノートが、今もなおひっそりと蒼司の手元に横たわっている。
  纏まらない思考と、収まらない感情。夕刻の光景が瞼の裏に焼きついていて、離れようとしてくれない。女生徒に囲まれていただけなら、単に楽しく会話していただけなら、多少重苦しい心地ははすれどもここまで気に掛かりはしなかったのだ。
  女生徒からの「告白」という、恋愛感情に直結する行為を目の当たりにしてしまったから。だからこそ、こんなにも蒼司の心を苛んでやまない。結局このような状態では勉強が身に入るはずもなく、拓斗のことばかりが頭の中で堂々巡りし続けている。
  すると不意にコンコン、と扉がノックされる音がした。物音のせいで唐突に思考は途切れ、蒼司は思わず肩をびくりと揺らす。何事かと蒼司が振り返れば、部屋の外側から発せられた声はすぐに室内まで届いた。
「蒼司ー!」
  扉の向こうから聞こえてくるのは、紛れもなく拓斗の声だ。けれども到底拓斗と会話する気にはなれず、無視を決め込む。すると再度、懲りずに扉が叩かれた。
「なあ蒼司、開けてよ」
  嫌だ。心の中でそう返事をして、蒼司は頑なに無視を続ける。だが一向に諦めてはくれないらしく、次はスマートフォンの着信音が部屋に響いた。ディスプレイに表示されている名は、確認するまでもなく拓斗である。これ以上はさすがに周囲への迷惑を考えねばならないと、蒼司は観念してドアノブに手をかけた。
「……うるさい」
  悪態をつきながら、ゆっくりと扉を解放する。その先にいた拓斗は蒼司を見るなり、安堵の表情を浮かべた。よかった、と零す拓斗に、妙な居心地の悪さを感じる。目を背けたくなる気持ちをなんとか堪えながら、蒼司はかろうじて口を開いた。
「……なんの用」
「なんの用、って……。もう、今日どうしたんだよ?  先に帰っちゃうし、マインも既読無視だし。……いつもなら、なんだかんだ待っててくれるのにさ」
「……」
「もしかして俺、蒼司になんかした?」
「……別に」
  蒼司を案じる拓斗に、ぎり、と奥歯を噛みしめる。まったく、人の気も知らないで。そんな感情を心に抱く傍らで、拓斗には一切の非がないこともまた、蒼司は理解していた。単にひとりで嫉妬して、勝手に傷ついて、事情を知らない彼に当たっているにすぎない。身勝手なのは己だと、嫌というほど自覚していた。
  こんなのきっと、拓斗にとってもいい迷惑だろう。自分本位で臆病なだけの自身に振り回される、拓斗のことを考えるならば。蒼司は拓斗から僅かに視線を外し、ぽつりと言葉を洩らす。
「なあ……別れようか、俺たち」
「は……、今なんて」
  口から零れた声は、驚くほど冷淡に響いた。大きく見開かれたふたつの翠が、すぐ傍で酷く揺らめいている。無意識のうちに胸の辺りを握りしめたせいか、白いシャツにはいつの間にか小さな皺が寄ってしまった。蒼司は胸中を悟られぬよう、敢えて拓斗の瞳を見据えながら、今度は明確な意思をもって言葉を続ける。
「別れようかって、言ったんだ」
「い、いやいや、待って待って!  なんでそんな、急に」
「…………」
「俺のこと、やっぱり嫌になった?」
「…………」
「黙ってたらわかんないよ、蒼司……」
「……ごめん」
  拓斗の真摯な視線が、身体中に痛いほど突き刺さる。もうこれ以上、拓斗と対峙していられる自信がなかった。言うべきでない本音を、つい零してしまいそうな気がして。
  蒼司はきゅっと唇を噛む。まるでその場から逃げ出すように、衝動的に身体が動いた。重心がふらりと傾いて、一歩、また一歩と足を自然と前に進める。慌てる拓斗の真横を過ぎ、ドアノブに手をかけ、そして蒼司は部屋を飛び出した。扉が勢いよく閉まる音を背に受けながら、菩提樹寮の廊下を足早に抜けていく。一度駆けだしてしまえば最後、あとはもう止まり方さえ忘れたかのようだ。
  食堂を過ぎ、エントランスを過ぎ、大きな門をくぐって、敷地の外を踏みしめて。両の足で地面を交互に蹴り続けるうちに、どんどん菩提樹寮が遠ざかっていく。そうして蒼司はただ行く当てもなく、夜の横浜へと駆けていった。



  突如ひとり残された部屋には、無音だけが漂っている。現在この部屋の主である彼は、今はここにいない。呼び止めることすらままならずに部屋を出た蒼司の影を追うように、拓斗はかたく閉ざされた扉を、ただ視界に入れていた。
  別れたい、と関係の解消を示唆する想いを蒼司に告げられたのが、つい先ほどの話だ。酷く泣きだしそうな顔をしながら、それなのになんでもない風を装いながら。幼馴染である蒼司とは、それなりに付き合いが長い自負がある。故に彼が今、なんらかの感情を殺そうとしているのではないかと、確証はないがなんとなくそう感じていた。
  ただ問題なのは、蒼司が「別れたい」と言い出したきっかけだ。それが、今の拓斗にはとんと見当もつかない。昨日――いや、今日もともに授業を受けていた頃は、まだ普通だったように思う。それなのに、果たして蒼司になにがあったというのだろうか。
  もしも無意識で彼を傷つけていたのならば、きちんと正面から謝りたい。だからこそ拓斗は、もう一度蒼司と話がしたかった。
  本当は今すぐにでも走って追いかけて、真意を訊きたいというのに。頑なに動いてくれない己の足が、もどかしくて堪らない。そんな中、拓斗は何気なく机上へと視線を遣った。そこにあったのは、開いたままのテキストやノート。それから、彼のあおいスマートフォンだった。
(……蒼司のやつ、スマホも持ってないのか)
  これでは、こちらから連絡を取ることすら敵わないではないか。スマートフォンすら置き去りになっているのだから、恐らくは財布の類いも持ち歩いてはいないだろう。拓斗は思わず頭を抱えた。こうなると、やはり自らの足で蒼司を探すより他ない。この辺りの土地には未だ明るくはないものの、それは蒼司とて同条件だ。どこかへ向かうとすればきっと、今までに行った経験のある場所のどこかだろう。
  同じところで考えてばかりいても、なにも始まらない。とりあえず追いかけるところから始めようと、拓斗は静かな部屋をあとにする。そうして食堂を通り掛かったとき、ふと唯と怜のふたりが談笑しているのが目に留まった。
「あっ、拓斗くん……!」
「三上くんなら、さっき出ていったわよ」
  拓斗の姿を見るなり、唯は思わずといったように席から立ち上がる。対して怜は、普段通り冷静にエントランスのある方向へと目を遣った。対照的なふたりではあったが、ともに拓斗を案じているのは確かだろう。そして恐らくは、案の定なにも持たず外へ向かったらしい蒼司のことも。やっぱり、と拓斗が呟くと、唯が「あのね」と控えめに口を開いた。
「……今日ね、蒼司くん、放課後に会ったときから少し様子がおかしかった気がするんだ。あのときは気のせいかなって思ったけど……、やっぱり気のせいじゃなかったのかも」
「そっか……。教えてくれてありがとう、朝日奈さん。香坂さんも、ありがとうございます」
  唯の発言が、拓斗の予想を確信へと塗り替えていく。やはりきっかけは放課後、あるいはその少し前にあるらしい。相変わらず根本的な原因はわからないものの、それでも彼女の言葉は蒼司の様子を探る手がかりとしては充分であった。
  早く蒼司に会いたい。会って、きちんと話がしたい。そのために拓斗が今できるのは、一刻も早く彼に辿り着くことだ。
「……俺、ちょっと蒼司探してくる!」
「気を付けてね!」
「いってらっしゃい」
  唯と怜に見送られながら、拓斗は菩提樹寮のエントランスを抜けた。こちらから蒼司へと連絡する手立てはないが、彼が行きそうな場所には幾つか思い当たる節がある。長年の勘が鈍っていないことを祈りながら、拓斗は足を進めた。



  闇雲に走り続けた足をようやく止め、蒼司は深く呼吸をした。夜の横浜は相変わらず喧騒に満ちていたが、それでもこの場所は街中よりはずっと静かだ。
  高台の公園は、時間帯も相まってか人気《ひとけ》も少ない。高い場所から見下ろす街明かりは今日も煌めいていて、忙しない都会の人々の活動が目に浮かぶようだ。地元で感じるものとはまた違う、けれども心地のよい風が頬を撫ぜる。穏やかな夜風のおかげで、幾らかの冷静を取り戻せた気がした。
  そういえば、と蒼司ははたと気づく。考えなしに部屋を飛び出したせいで、財布はおろかスマートフォンさえ菩提樹寮へ置き忘れてきたという事実に。あまりにも短絡的かつ衝動的すぎる行動に、我ながら呆れてしまう。
  拓斗はきっと、蒼司を追いかけては来ないだろう。――いや。正確には、たとえ追いかけてきたとしても、拓斗の足を思えばすぐに追いつくことは不可能だろう、とでも言うべきだろうか。それに本意ではなかったとはいえ、今の蒼司にはなにひとつ連絡手段がないのだから、なおのこと。なんにせよ、しばらくはこの場所を拓斗に感づかれはしないだろう。そう思い至ったところで、蒼司は一瞬でも安堵してしまった己に苦い感情を抱く。
  ――別れたくない。それが蒼司の本心だった。いつの日か――もしかするとずっと昔から、蒼司の心の奥底に芽吹いていた想い。拓斗へと向かう感情は友愛であり、親愛であり、そして無意識のうちには淡い恋慕さえあったのかもしれない。コーヒーとミルクの境目を失ったカフェオレのように、それらは蒼司の中でゆっくりとかき混ぜられ、やがて来る開花の日を待ち望んでいた。それは花開くよりも前に、心の一番深い場所で幾重もの鍵をかけられてしまったのだけれども。
  スターライトオーケストラに出会い、あの夏の日々を経たことにより、蒼司が得たものはたくさんある。柔らかく綻んでいった感情もそのひとつで、抑圧された時間を取り戻そうとしてか、蒼司の中で急速に成長を進めた。ひとたび自覚した想いは瞬く間に心を埋めていき、必死に抑えようとしてもしきれないほど、手のひらから次々に零れ落ちてしまう。そうしてほんの僅かな時間で想いは募っていき、すぐに蒼司自身が持て余すほどにまで育ってしまった。
  それでも蒼司は当初、決して拓斗に想いを告げるつもりはなかったのだ。幼馴染として、親友として傍にいられるだけで、充分すぎるほどに幸せだったから。それなのに拓斗から告げられた想いのせいで、ぜんぶ、ぜんぶ台無しになってしまった。彼に手を差し伸べられ、手を取り、そして一歩踏み出した関係の先にあったのは、現実とは思えないほどの多幸感。今となってはもう、自身が「拓斗の一番でいたい」と強く望んでしまっていることに気がついている。
  だからこそ、拓斗の負担にだけは絶対になりたくなかった。この先、万が一拓斗から別れを告げられたときには、潔くその手を離す覚悟ができている。――できている、つもりだった。
  拓斗が告白されている場面を直に目撃して、いつの日か来るかもしれない「万が一」の可能性をすぐ近くに感じて。突如として突きつけられた未来に怯えた結果、拓斗の前から逃げ出したのだ。覚悟を決めたようでいて、結局は臆病なままの自分から抜け出せてなどいない。弱い自分から、なにも変わってやしなかった。
  蒼司はそっと息を吐く。少しだけひんやりとした夜の空気に溶けたそれを見送って、静かに瞼を下ろした。視界を閉ざしてしまえば、耳に入ってくるのは周囲の音ばかり。風が草木を揺らし、衣服を揺らし、遠くには喧騒が聞こえる。
  身ひとつで飛び出してきたのだから、いずれは菩提樹寮へと戻らないといけない。タイムリミットまでは、長くても一時間ほどしか残されていなかった。けれども一体、どんな顔をしてあの場所に戻ればいいのだろう。そして戻ったとしても、拓斗になんと言うべきなのだろう。優しい彼のことだから、きっと心配くらいはしてくれているに違いないけれども。
  すると不意に、蒼司は自身の背後に人の気配を感じた。それから程なくして、聞き慣れた伸びやかな声が耳に届く。
「蒼司!」
「……っ、拓斗」
  こつ、こつと鳴る杖の音が、足音とともにゆっくりと近づいてくる。静かな公園ではいやに大きく響いて、そのたびに蒼司の心を掻き乱していく。自ずと震える声を隠し切れないまま僅かに後退れば、ざり、と小さく砂が地面に擦れる音がした。
「……なんで、お前」
「蒼司ならきっと、静かなところにいると思ったから。……まあ、ぶっちゃけ勘?」
「なんだよ、それ……」
「ていうか蒼司ってば、財布もスマホも持たずに出てっちゃうんだからさ。まったくもう」
  探したんだよ、と。そう続けた拓斗の目が、すっと柔らかく細められる。結局はまた、こうして迷惑をかけてしまったということか。押し寄せる罪悪感に眉根を寄せて、蒼司はそっと自嘲する。
「ほんとバカだよな、お前って。……俺なんて、放っておけばいいのに」
「放っておけるわけないよ。別れるなんて言われたら、尚更」
  拓斗の真剣な瞳に映る自分は、果たして今どんな表情をしているのだろう。真正面から放たれた彼の言葉が身体中に鈍く突き刺さるのを、蒼司は感じていた。放っておいてほしいのに、放っておいてはくれなくて、自由の利かない足では大変だろう道のりをわざわざ歩いて、探しにきて。幾ら突き放しても諦めずに手を差し伸べてくる拓斗を、今度こそ手放せなくなってしまいそうで。内側から込み上げてくる熱が、目頭の奥でぐるぐると蟠っている。
  なにか言い返したいと思っても、うまく言葉が見つからなかった。蒼司は自身の左腕をきゅっと掴み、僅かに視線を外す。柔らかな夜風がふたりの間を抜け、草木を揺らした。
「俺、バカだし鈍いからさ、なんで蒼司が別れたいって思ったのかはわからない。最初はまた蒼司を怒らせたのかなとか、俺といるの嫌になったのかな、とか色々思ったんだけど。でも……今の蒼司見てたら、そうじゃないのかなって思ったんだ」
  拓斗の声が風に乗り、静かな公園に響く。蒼司、と名を呼ぶ声につられるように再び目線を合わせれば、夜闇にひかる翠の瞳は先ほどよりも一層まっすぐに蒼司を見据えていた。
「無理にとは言わないけど、もし俺に不満とかなにかあるなら教えてほしい。だって俺、蒼司のつらそうな顔、もう見たくないもん。それに……これからもずっと、蒼司と一緒にいたいし」
「っ……」
「……だからさ、そんな泣きそうな顔するなよ、蒼司」
  瞬間、蒼司の身体がゆらりと傾く。拓斗のほうへと、しな垂れるように。肺の中をいっぱいに満たす香りは、いつか吸い込んだ陽だまりの日々のようだ。そして全身に感じる温もりは、酷く泣きたくなるほどの安堵感を与えてくれる。拓斗に抱き寄せられたのだと、蒼司は彼の腕の中でようやく理解した。
  拓斗に指摘されるほどまでに、泣き出しそうな顔をしているのだろうか。熱が籠もったままの目元も、つんと痛む鼻先も、言われてみればその通りかもしれなかった。いい加減、覚悟を決めるときなのかもしれない。――今までの意味とは違う、「覚悟」を。蒼司は少しだけ背の高い拓斗を見上げながら、本当の心を紡いだ。
「……れだって、俺だってほんとは、別れたくない」
「蒼司……」
「お前の傍にいたいよ、拓斗――、っ」
  打ち明けた本心ごと飲み込まれるように、つと吐息が奪われる。唇に降るあたたかな感触は、紛れもなくキスだった。重なった場所から生まれるぬくもりに酔いしれて、このまま身を委ねてしまいそうになる。初めてのキスはレモン味とはよく言ったものだけれど、味なんて到底わかりやしない。ゆっくりと離れていく唇に得もいわれぬ口惜しさを感じながら、同時に蒼司はここが公共の場であるのだと我に返った。
「おま、お前ここ、外……!」
「ごめん、つい……嬉しくって」
「つい、じゃないだろ! 誰かに見られたら……!」
「いいじゃん、別に。ていうか誰も見てないって」
  拓斗は頬を緩ませながら、事も無げに言ってのける。そんな拓斗の様子に、蒼司は思わずため息を洩らした。それでも妙に離れがたいのは、きっと気のせいではないだろう。もう少しだけ、もう少しだけと自分に言い訳をしながら、蒼司は拓斗の腕の中に収まったまま、そっと彼の胸に頭を預ける。
「……別に俺は、最初から怒ってなんかない。ただ……」
「ただ?」
「……いざとなったらお前を手放せるようにって、ずっと思っていたんだ。……けど、ダメだった」
  震える声を隠せないまま、蒼司は訥々と本音を洩らしていく。心なしか強まった腕の力に拓斗の存在を感じ、自然と涙が溢れた。ひとたび堰を切った水滴は、ただ静かにゆっくりと、蒼司の頬を伝い落ちていく。
「お前の負担にだけはなりたくないのに、一緒にいるとどんどん欲深くなっていく。……ほんと、どうしようもないよな、俺」
  つと、濡れた頬に指先が触れる。柔らかな果実に触れるかのようにして、その場所は自分よりも体温の高い手のひらに包まれた。それから次々と内側から湧く涙の源を、拓斗の指の腹がそっとなぞっていく。水を拭い去る動きがどうにもくすぐったくて、蒼司はすっと目を細めた。
  蒼司、と。拓斗に名を呼ばれ、蒼司はゆるりと顔を上げる。透き通る翠色は柔らかく、けれどもはっきりとこちらを見つめていた。ひとたび視線が絡んでしまったが最後、もうこのまま動けなくなる。求めたくなる。――愛おしさが、溢れてしまう。
「好き、大好きだよ。俺のこと手放すとか、負担になるとか思わないでさ、ずっと一緒にいてよ。ただ、それだけでいいんだよ。……だって俺のほうこそ、もう蒼司のこと手放せないもん」
「……うん。……、……俺も好き、だよ」
  もう、拓斗を諦めようとするのはやめよう。どうせ諦めようとしたところで諦めきれやしないのだから。それに蒼司が思い悩むたび、どうせ拓斗は何度だってしつこく手を伸ばしてくるのだから。蒼司は観念し、おずおずと拓斗の背に自身の腕を回した。自分からも抱きしめ返してしまえば、より一層ふたりの間隔はゼロ距離へと近づいていく。
  もう一度、拓斗とキスがしたい。一瞬だけ脳裏にそう過ったところで、蒼司はここが公共の場であることをいま一度思い出し、慌てて頭を振る。せっかくだが、今は我慢するより他ない。だというのに。
「なあなあ、蒼司。……キス、もっかいしてもいい?」
「はあ……。だめに決まってるだろ」
「えー?  蒼司のけち」
「けちじゃない。外だろ、ここ」
  拓斗の頭上にしょんぼりと垂れた耳が見えるようで、蒼司は思わず笑いそうになる。さしずめ、飼い主に「待て」を指示された大型犬のようなものだろうか。こんな大きな犬は飼ったつもりがないのだが、如何せん物欲しげに瞳を潤ませられたら、そのように感じても仕方がないだろう。
  今はまだ、拓斗の要求に応えてやるつもりはない。けれどもその先の続きを望んでいるのは、蒼司だって同じなのだ。だからもう少しだけ、待っていて。蒼司はすっと目を細めて、言葉を続ける。
「……帰ってからなら、いいけど」
「ほんとに!?  やった!」
  きつく抱きしめる拓斗の腕は、まったく加減を知らない。だがそれもまた、蒼司にとっては心地よくて堪らなかった。一番大切な存在は確かにすぐ近くにいるのだと、この肌で感じられるのだから。
  早く帰ろう、と。急かしてくる拓斗が転ばぬように隣で見守りながら、蒼司は柔らかく頬を緩める。願わくはこの先もずっと、傍にいられますように。穏やかに包み込むような風が、夜の街に吹き抜けていった。