オレの役目


「……ん……ふわぁ……、あれ……?」
  悠介が目を覚ますと、そこは明かりが点いたままの自室だった。ベッドを使わず、机に突っ伏したまま眠っていたせいで、どうにも身体が軋むようだ。腕にもへんてこな筋が型となって付いているし、きっとこの様子だと顔にもついてしまっているのだろうな、と起き抜けのふわふわした思考の中、悠介はぼんやり考える。
  それにしても、いつの間に眠ってしまったのだろうか。少しばかり思案すれば、どうやら次のライブに向けての作戦を考えている内に、眠ってしまったらしい、ということが分かった。それに、机上にはスケッチブックやら筆記用具やらが無造作に置かれていて、眠りにつく前のことなど、思い当たることは比較的容易であった。
  机に伏せったままの体勢をゆるりと起こせば、肩口からはブランケットがずり落ちた。きっと寝落ちした悠介のためにと、享介が掛けてくれたのであろう。その心遣いに、悠介は小さな笑みを零す。
  向かいに座っていた享介はといえば、先程までの悠介同様、机に伏せったまま眠りについていた。しかも、眼鏡まで外さないままで、だ。
  そういえば、と悠介はふと思い起こす。寝落ちする以前に悠介が描いていたはずの、作戦を記したスケッチブックが見当たらないのだ。夜食を持ってくると言って一度部屋を後にした享介を待つ間、思いつくままに描いていた作戦。享介が帰ってきたらすぐに見せようと思っていたのにも関わらず、その前に寝落ちしてしまっていた。結局見せず仕舞いだったのに、果たしてどこに行ってしまったのだろう。悠介は、机上をぐるりと見回した。
  するとそれは、眠っている享介の腕の下敷きになっているようであった。なんだ、享介はちゃんとスケッチブックに気が付いてくれていたんだ。悠介は小さく胸を撫で下ろした。
  享介を起こさないようにと、悠介は慎重に、腕の下にあるスケッチブックを抜き取ろうと試みる。だがそのとき、眠る前に自分が描いたそれとはまるで様相が違うことに、ふと気が付いた。
(……あ、絵がキレイになってる)
  最初悠介が描いた絵は、自分で描いておきながら、どうにも分かりづらそうなものだったのだ。正直なところ、悠介自身、あまり絵が得意とは言えないので、それも致し方ないであろう。だが、今スケッチブックに描かれている絵はすっきりとした、綺麗なものへと修正されているではないか。
  十中八九、これは享介の仕業だろうということは、想像に難くなかった。我が弟ながら、享介は手先が器用なところがあるから。だからこそ、悠介の伝えたかったことをしっかりと汲み取り、分かりやすい絵にしてくれたに違いない。
  悠介はスケッチブックを一度置き、先程まで自身に掛けられていたブランケットを手に取ると、それをそっと享介の肩口へと掛けた。そしてスケッチブックを再度手にし、元々座っていた場所とは違う、享介のすぐ傍へと腰掛ける。
  手元にあったペンの蓋を開ければ、きゅぽん、と小さな音が鳴った。悠介は無意識のうちに口角を吊り上げながら、スケッチブックの端にペンを滑らせる。「最強じゃん」と素直な感想を綴り、仕上げにはにっこり、笑顔マークを添えて。それらを書き終えた悠介は、満足気にペンを傍らへと置いた。

  それから悠介は、空いた手をそのまま真っ直ぐと伸ばした。前方には、享介が夜食にと用意してくれていたおにぎりがひとつだけ、皿の上に乗っている。皿の乗った盆には、麦茶の淹れられたグラスコップも同様に乗せられていた。悠介は左手でおにぎりを、右手でグラスコップを取り、座り直す。そしてコップを手元に置くと、おにぎりを一口頬張った。
「んー、おいしい」
  いい塩梅の塩気は正しく悠介好みで、流石享介だと感心せざるを得ない。一口分を十分に咀嚼し、嚥下すると、それまでなかった空腹感が一気に押し寄せてくるようで、口を運ぶ回数も自ずと増えていく。
  二口目で姿を現したのは、真っ赤な梅干しだった。これは長野に住む祖母が漬けた自家製のもので、悠介にとっても享介にとっても、昔からの好物のひとつである。大好きな祖母の梅干しの入った、大好きな享介の握ったおにぎり。美味しくない訳がない。そうこうしているうちに、悠介はぺろりと完食してしまっていた。
  おにぎりを食べ終えた悠介は、グラスコップの中で揺蕩う麦茶に口を付けた。それはすっかり室温に馴染み、温くなってしまっている。けれども起きてそれ程経っていない、水分を欲する身体には十分だ。グラスコップを傾け、中の焦げ茶色をゆっくりと呷れば、渇いた喉から食道、そして胃に向かって水分が流れ落ちる様を感じた。
  麦茶を一気に飲み干し、悠介は時計を見遣る。時刻は午前三時をとうに過ぎ、長針は頂を目指して歩む最中であった。だが、一度眠ってしまったとはいえ、流石に食べたばかりで二度寝、という訳にもいくまい。もう少しだけ起きていようと、悠介は心の中で呟いた。

  静かな部屋に、時計の針の音だけがこちこちと響いている。起きていようと決めたものの、特に何をするでもなく、悠介はただ、傍で眠っている享介のことをまじまじと眺めていた。目の前の享介は、穏やかな寝息を立てており、呼吸に合わせて規則的に肩が上下に動いている。そんな享介を見て、悠介は毛先をくるくると弄ってみたり、そっと頭を撫でてみたりしていた。にもかかわらず、享介は一向に起きる気配がなかった。
  別に、彼を起こすつもりはないのだ。けれど、それでも普段向けられる視線が感じられないという現状は、今の悠介にとってどうにも面白くなかった。
  悠介は享介の頬に掛かる髪を指で掬い、露わになった箇所へと口付けてみる。一回、二回、三回。場所をずらしながら、静かに唇を落としていった。だが享介は、僅かに身じろぎはしたものの、瞼を開くというまでには至らなかった。
  悠介はつまらなさそうに、頬から唇を離す。そして少しだけ身体を動かして、今度は享介の耳元へと移動した。耳殻を甘く食み、そっと舌を這わせる。耳の線をなぞるように、つう、と舐め上げた。
「享介、すきだよ」
  耳元でそう囁いて、耳の裏にも軽く口付けて。そこまでして、悠介は再度享介の顔を覗き込んだ。
「…………っ……」
  微かに息を詰めるような声が、片割れから洩れる。だが、その瞼は相も変わらず固く閉ざされていて、開く兆しなど見せようとしなかった。
  その様を見るなり、漸く諦めが付いたのか、悠介は小さく嘆息する。そして享介に近づけていた身体ごと引き、元の体勢へと戻った。
「うーん、やっぱり寝てるか……。オレももう寝ようかなあ」
  悠介は立ち上がり、押入れからもう一枚のブランケットを引っ張りだす。そしてそれを持ったまま座っていた場所へと戻ると、悠介はそのまま横になり、ブランケットに包まった。
  横になった途端、眠気が一気に押し寄せてきて、悠介は大きく欠伸をする。どうやら、すぐに寝付けそうだと、悠介は安堵した。締め切ったはずのカーテンからは、既に外の光が漏れ始めている。部屋の灯りを消し忘れたまま横になってしまったが、直に明るくなるのだから、別に構わないだろう。悠介は電気を消すことを諦めて、微睡みに身を任せるように瞼を閉じたのであった。

「……悠介のばか」
  机に突っ伏したまま、ぱちりと瞼を開いた享介は、小さく独りごちた。一体、目を覚ましたのはいつ頃だっただろうか。少なくとも、悠介に触れられたことは覚えているのだから、その辺りだろうけれど。
  けれども、あのときの享介はまだ、心地良い微睡みの中にいたのだ。ぼんやりとした思考の中、安心するあの手のひらで頭を撫でられて、髪を触られて。再び眠りの海に身を投じてしまおうかと、享介がそう思っていた矢先の出来事だった。
  耳元を擽るような、悠介の声。普段の明るくはしゃぐような声とはまた違う、静かで落ち着いたそれは、微睡みの中にいた享介を完全に覚醒させた。そしてそれだけに留まらず、その声は容易に享介の胸を高鳴らせたのだ。
  どくり、どくりと脈打つ左胸から送られた血液が、一気に全身を流れていき、身体中を火照らせる。自分でも分かるくらいに身体が熱を帯びたのだから、きっと肌も赤く染まっていただろう。だというのに、よくもまあ悠介は、享介が起きていることに気が付かなかったものだ。
(……ああもう、思い出しただけでだめだ)
  囁かれた声だけではない。耳に触れられた感触さえも、享介の身体には色濃く残っている。先程のことを想起しただけで、あのとき覚えた感覚の全てが蘇ってくるようだ。
  半ば導かれるように、享介は赤く染め上げられたままの耳殻へと手を伸ばした。そこは片割れが残した唾液で、未だほんの少し濡れそぼっている。耳を舌でなぞられ、身体中を駆け巡ったぞくりとした快感。享介は、それがどうしても忘れられずにいた。
「どうしてくれるんだよ、まったく……」
  どうにも熱が治まりそうもなくて、熱く火照る身体を起こすこともできずに、享介は顔を自分の腕の中へと再度埋める。そして視線だけを、近くで横になって眠る悠介の方へと動かした。
  きっと今頃既に夢の中なんだろう、悠介は。ブランケットを深く被り、裾を緩く掴みながら、穏やかな寝息を立てていた。全く、人の気も知らないで。享介は心の中でそんな悪態をつきながら、恨めしそうに悠介を見遣る。だがそんな弟の姿など、当の兄は知る由もなかった。

モバエム増刊号『俺の役目』(応援団イベ)の悠介視点のお話でした