でんきのはこ

がたん、とその身に大きな衝撃を受けたところから、この時間は始まった。狭い狭い箱の中、とあるマンションのエレベーター。それまで点灯していたはずの階数表示が、ぴたりと止む。目の前の閉ざされた扉は一向に開く気配を見せず、かといって上階へも下階へも、どちらに対しても動こうとはしなかった。ああ、閉じ込められたんだ。兄とふたりきりのエレベーターで、享介は静かに悟った。
  享介は悠介を見遣った。同様に事態を悟ったのだろう、兄は頑なに開こうとしない扉にそっと触れている。しかしその実、意外にも彼は冷静であった。閉じ込められたと分かるなり、非常用のインターフォンを押し、現状を保守会社へと伝える。すんなりと対処が終わり、いつの間にか救助を待つのみとなっていた。
  結局のところ、何が原因でエレベーターが止まったのか、その理由までは分からなかった。けれど照明がきちんと機能しているところを見れば、どうやら停電が理由というわけでもなさそうだ。取り立てて急いでいた訳でもないけれど、どんな理由であれ閉じ込められた事実には相違ない。思いがけず空いてしまった救助が来るまでの数十分間を、悠介と話しながらでも過ごそうか、などとぼんやり考えていたそのときであった。
「享介ー」
「ん、なに?」
「ちゅーしよ?」
  享介が顔を上げれば、そこには首を傾げながら顔を覗き込んでくる悠介の姿があった。人差し指で自身の唇を指し示して口付けを要求する様に、得も言われぬ感情を覚えたのもまた事実ではあったが、それとこれとはまた違う。享介は小さく首を横に振ると、やんわりと兄を押し留めた。
「ここではだめ」
「えー、誰も見てないじゃん」
「……だってここ、監視カメラあるだろ」
  言いながら、享介は天井の片隅にあるカメラを指差す。確かにふたりきりの空間ではあるが、その一方でこうして撮影も施されている。享介には「誰か」に見られている、という感覚がどうにも拭えないでいた。
「享介の言いたいことは分かるけど、でもさー……。どうしても、だめ?」
「だめ」
「一回だけって言っても?」
「だーめ」
  食い下がってくる悠介をその度に拒めば、目の前の片割れはむくれたような表情を浮かべた。そしてその表情は次第に、落胆の色へと変わっていく。
「……やっぱり、だめ?」
「っ……」
「享介……」
「……ああもう、一回だけ!  一回だけだから!」
  口を開いた悠介がしょんぼりと項垂れて見えて、享介は暫時押し黙る。名を呟き、こちらを見遣る悠介の視線が、痛く突き刺さるようだ。そんな様を見てしまえば、享介にはとてもこれ以上拒むことはできそうもなかった。半ば開き直るように頷けば、悠介の顔には明るい花が戻る。一瞬で繰り広げられるその変容に、享介は思わず笑みを零した。
  ありがと、享介。悠介はそう呟くと、やんわりと享介の腰へと手を回した。そして悠介の手は享介の頬に触れ、そのまま顔が近付いて、唇同士が重なる。柔らかで温かな感触を覚えたのも束の間、薄く開いたままの享介の唇の間を縫って、悠介の舌が滑り込んできた。
「っん、ん……ふ、っ」
  聞こえるか否か怪しい程度の機械音しかしないエレベーターには到底似つかわしくない、淫猥な水音。くちゅり、くちゅりという舌と唾液の絡む音だけが、ふたりきりの空間を支配していた。
  口蓋を舌でなぞられ、舌を吸われ、角度を変える度に新たな刺激が生まれていく。僅かに汗ばんだ手のひらで触れられた頬が熱い。唇と唇の交わった箇所から溶けてしまうのではないかと錯覚してしまうような口付けに、享介は思わず夢中になった。その思考からは既に、ここが公共の場であるとか、監視カメラが設置されているだとか、そういったことは隅へと追いやられかけていた。
「んぅ……、っん、……は、ぁ……」
  頭の中が白に染まりかける中、唇は静かに離された。ふたりの間を繋ぐ唾液は光を浴びててらてらと光り、やがてそれはぷつりと空に途切れる。悠介に軽く身を委ねながら、乱れる呼吸を整えていると、ふと我に返ったように享介は跳ね起きた。
「っ、こんなとこでこんなこと……、してる場合じゃ」
「うん。……時間的にもうすぐ保安会社の人、来るかも」
「もっと早く、言えって……!」
「だってそれ、オレも今思い出したもん」
「ったく、もう……!」
  しれっと笑う悠介に呆れながら、けれどそれ以上になんとか今の有様を他人に見られないようにと、享介は懸命に繕った。乱れた吐息に濡れた唇、紅く染まる頬。そんな姿を見られたならば、密室で何をしていたのかなど想像には難くないだろう。小さな恨みを込めた瞳で享介が片割れを見遣れば、何のことかとわざとらしく視線を逸らした。
 ――固く閉ざされた扉が開くまで、あと三分。