集中できない。酷く心をかき乱される。荒れる心を反映したような音が、静かな練習室を満たす。月森はそっと弓を下ろし、今日何度目か分からない溜息をついた。
「酷い音だな……」
独りごちた言葉は宙へと消えていく。普段の月森なら到底ありえないようなミスの連続の理由は、痛いほどに分かっていた。心が限界だったのだ。
月森は秘めた思いを抱えていた。出会った当初からいがみ合い、反発してきた相手。相容れることなどできないと思っていた相手。そういった間柄であったし、なによりもまず男同士であった。
この思いを自覚する前は自らの変化に戸惑ったけれど、「恋」という言葉はそのもやもやとした感情にぴたりと当て嵌まった。無論驚きはしたが、すんなりと想いを受け入れることができた。
しかし、それを伝えるとなると話は別である。幾ら「好きだ」と伝えたところで受け入れられるとは思わなかった。伝えて拒絶されるくらいならば内に秘めたままにしておきたかった。そう考えた月森は次第に土浦を避けるようになった。
元々、音楽科と普通科では棟が違うせいで同じ学校内とはいえども会う機会は少なかった。それに彼は来年から音楽科へ転科すると聞いていたし、自分だって春からウィーンへの留学が控えていた。
互いに忙しい。だから会えなくても仕方がない。月森はそう自らに言い聞かせ続けてきた。
けれど、会えない日が続くにつれて想いは募っていくばかりであった。会いたい、話したい、一緒にいたい。器いっぱいに注がれた水のように、想いは今にも溢れかえってしまいそうだった。溢れそうな想いを、月森はすんでのところで押しとどめた。
想いを自分の内に留めたまま留学してここを去ると決めたはずだ。土浦ならばきっと誰かと恋をして、いずれは結婚もするだろう。月森の想いを知らないまま。
……それで、いい。自分が我慢すれば全ては丸く収まる。ただ、それだけのこと。少し……いや、とてもつらいことだけれど、それで彼が幸せになれるなら。そう心に言い聞かせた。
「あと少しだけ、だから……」
せめて想うことだけでも許してはくれないだろうか。月森は再びヴァイオリンを構える。言葉にできない心を、そっと音色に乗せた。
◇
どれくらい経っただろうか。――恐らく30分と少し。さして時間は経っていないように思えた。
つらく苦しい恋心を乗せた音は、奏でた月森自身が驚くほどに情動的であった。自分にもこんな演奏ができたのか、と。これもすべて土浦に出会って恋をした所以なのだろう。
彼との出会いは自分を確実に成長させた。もうこの想いを伝えることはないけれど、あと少しだけ。嫌われさえしなければ構わないから、だから。
(俺はそれで、十分だから……)
心の中でそっと呟いたとき、後ろから扉の開く音がした。月森が振り向くと、そこに立っていたのは土浦であった。
「月森」
「土浦、どうして……」
「どうして? ……それはこっちのセリフだ。なんで俺を避けるんだ?」
「……別に避けたつもりはないんだが」
「嘘つけ、声を掛けようとしても顔を見るなりすぐどっか行っちまうじゃねえか」
「気のせいじゃないのか?」
「……気のせい?」
「ああ」
平静を装って言葉を放つ月森に、土浦は顔を顰めた。そして後ろ手に扉を閉め、ずかずかと月森の方へ迫る。咄嗟に逃げようと月森は後ずさるも、やがて壁際へと追いやられた。
それでも土浦を押し返そうと月森は先程まで弓を持っていた右手を持ち上げた。しかしその右手首を掴まれて壁に押し付けられると、とうとう月森の逃げ場はなくなってしまった。
「離せっ……!」
「離すかよ!」
「離してくれ……!」
「離したらお前、また逃げるだろうが!」
「……お願いだからもう、離してくれ」
俯きながら力なく告げる月森の声は、酷く震えていた。頬に一筋の涙が伝うのを感じる。
「話がしたいんだ」
だから顔、あげてくれ。その言葉に月森は恐る恐る顔をあげた。
「いいか、一度しか言わないからな。……好きだ、お前のことが」
「つち、うら……?」
「……こんなこと急に言われても困るだけだろうが、今言わなきゃいけない気がしたんだ」
ごめん、忘れてくれ。苦笑しながらそう告げた土浦は、すっと腕の拘束を解いて扉へと歩き出した。
待って、行かないで。そう言いたいのに言葉が出てこない。もどかしい気持ちが募る中、月森は咄嗟にジャケットの裾を掴んで土浦を引き止めていた。
「月森……」
「……俺も、俺も君と同じ……、っ」
溢れる涙を拭うこともせず、月森は声を振り絞る。土浦は振り返ると月森を強く抱きしめて、そのまま口付けた。
「……ん……っ、……ふ」
互いの頬が濡れるのも厭わず、何度も何度も触れるだけのキスを重ねる。優しく包まれるような感覚は、戸惑いを遥かに上回るほどの幸福感だった。
「泣くな、ここにいてやるから」
唇が離れ、宥めるように頭が撫でられる。月森が僅かに見上げると、どこか困ったような、それでいて慈しむような表情で見つめられていた。その優しさに、再び涙が零れる。
「ふ……っ、ぅ……、つちうら……」
「どうした?」
聞いてやるから取りあえず泣き止め。土浦が月森の頬に触れ、涙をそっと拭う。抱きしめられた腕から伝わる温度の心地良さを感じている内に、月森の涙はすっかり治まっていた。
「……避けていてすまなかった。その、言わないつもりでいたから……」
「お前、そのまま留学するつもりだったのか?」
月森が頷くと、土浦は今言っといて正解だったと小さく呟いた。それは月森の耳に届くことなく宙へと溶けていく。消えた言葉を聞き返そうとする月森を遮るように、土浦はそのまま言葉を続けた。
「離れてても俺はお前のこと、ずっと好きだから。だから待ってろ」
すぐに追いついてやるさ。そう言い放った土浦は、いつもの不敵な笑みを浮かべていた。そんな彼を見て、月森も笑みが零れる。
「俺もずっと好きだ。君のこと、向こうで待ってるから……だから」
だから、早く追いついて来い。言いかけた言葉は再び交わされた口付けによってかき消された。