きみと歩けば

遊→←ガク(中2×中3設定)

未だ人通りの多い昇降口を抜け、何気なく天を仰ぐ。先ほどまでちらついていたはずの雪は、どうやら静けさをそのままに、いつしか雨へと変わっていたらしい。吐いた息の白さは日に日に深まる冬を改めて自覚させるようで、遊我は人知れず両の手を擦り合わせた。
(……どうしようかな)
  確かに今朝、ろくに天気予報を確認せずに家を出てきたのがよくなかったとは思う。しかしながらすこぶる寒かったとはいえ、朝方はまだ晴れていたのだ。だからまさか昼すぎから天気が崩れるなんて、思いもよらなかった。などと自分の中でいくつかの言い訳を重ねながら、ぶ厚い雲に覆われた空をただじっと見ていた。
  別にいくらだって手立てはあるのだ。友人に頼んで少しの間だけでも傘に入れてもらうとか、職員室に行って先生に傘を貸してもらうとか、もはや誰のかわからないようなビニール傘をこっそり拝借するとか。そもそも走って帰れないほどの土砂降りというわけでもなし、最悪はこのまま家まで突っ走るというのもひとつの手だろう。
  けれどもなんとなく、今の遊我はどの選択肢を取る気にもなれなかった。――もしかしたらこの場に偶然、学人が通り掛かってくれるのではないか、なんて。そしてあわよくば一緒に下校できたら、なんて。どうしようもなく都合のいい、かすかな期待を抱いてしまう自分がいる。
  学人が好きだ。長らく自覚はなかったけれど、遊我はつい先日、ようやく己の感情にそう結論づけたばかりだった。
  一緒にいるだけでひどく心が安らいで、なんとなく目で追うようになって。遊我くん、と名を呼ばれるそのたびに、胸の奥から優しい熱が込み上げてくる。時に優しく時に厳しい彼の視線を、どうしようもなく独り占めしたくなったりもした。特定の個人に対して、こんなにも執着するのは初めてかもしれない。そう気づいたときには、少なくとも学人は遊我にとって特別な存在なのだと認めざるを得なかった。
  恋情と友情の境目とは、果たしてどこにあるのだろう。他の友人たちへと向かう感情と学人に向かう感情は、なにが違うのだろう。明確な違いがわからぬまま、それでも考え抜いた末に出した結論として、遊我はこの感情に「恋」という名を与えたのだった。そしてその日から、晴れて学人への片想いが開始したというわけだ。
  ただ自覚はしたものの、その想いを本人に打ち明けられるかどうかはまた別の話である。ただでさえ、学人は中学三年生――つまるところ受験生なのだ。将来を大きく左右する大切な時期である今、できる限り彼の邪魔になるようなことはしたくなかった。
  自分にとっての学人がそうであるように、学人にとっての自分もまた特別な存在になれたなら、どれほど幸せだろうか。そう思えども、学人のことを考えてしまうとどうしても一歩引いてしまうのだ。下手なタイミングで想いを伝えて学人のペースを乱したり、困らせたりするのは遊我にとっても本意ではない。
  本来ならば今日も放課後に生徒会室へ寄ろうと思っていたのだが、なんとなく途中で足を止めて引き返したところだった。だというのに学人に会いたい気持ちに未だ諦めがついていないのだから、まったくもって救いようがない。
  ――そうだ、今日は研究所に寄って製作中のロードを構うことにしよう。そうして新作が完成したら、またそれを学人に見てもらおう。彼のことだから、とっておきのロードにも興味を持ってくれるに違いない。遊我は小さく頭を振り、決意を新たに地を踏みしめる。するとその途端、背後から「遊我くん?」と聞き慣れた声が耳に届いた。
「……学人?」
  振り返ると、なにやら紙束を両腕に抱えた学人が校舎内からこちらに歩み寄ってくるところだった。大方、生徒会で作成した書類を提出しに行く途中なのだろう。
「今から帰るところですか?」
「うん、そんなとこ。学人は職員室?」
「ええ。といっても、提出したら帰るつもりですが」
  柔らかな微笑みを向けられると、つられるように頬が緩む。やっぱり好きだな、などと頭の片隅で思いながら、遊我は密やかに息をついた。
  今日はもう会えないだろうと思っていた手前、思いがけず訪れた小さな幸福が胸を満たしていく。本音を言えばもう少しだけ話していたいけれど、きっと学人は長々と話し込むよりも先に用事を済ませてしまいたいはずだ。明日になればまた学校で会えるのだからと心に言い聞かせて、遊我は「ばいばい」と口にしかける。しかしそれよりもわずかに早く、学人がなにやら眉を顰めた。
「ところで遊我くん、傘は持っていないのですか?」
「え?  あー……、うん。忘れちゃった。でもこれくらい平気だよ」
「なにを言っているんですか。今日はとりわけ寒いのですから、風邪を引いてしまいます」
「まあ、そうかもね」
「どうしてそう、遊我くんは……。……それでは、その……よろしければ私と一緒に帰りませんか?」
  思ってもみない学人からの申し出に、遊我はつい目を見開いた。あまりにも都合のよすぎる展開は、思わず白昼夢を疑いたくなるほどだ。一瞬停止した思考とともに口からこぼれた「え」という音が、なんとも情けなく響く。だがそんな遊我になにを思ったのか、学人の表情は段々と曇っていった。
「あの……もしかして嫌、でしたか? それともなにか都合が悪い事情がありましたか? だとしたら私、とんだ差し出がましいことを……」
「いや、そうじゃなくって! すっごく嬉しいし、助かるよ!」
  至極申し訳なさそうに眉尻を下げる学人を見とめて、遊我は懸命に頭を振る。するとよほど必死さが滲み出ていたのだろうか、学人はふっと肩の力を抜いたように見えた。
「けど、本当にいいの?」
「ええ、ぜひ。迷惑でないのならよかったです」
「迷惑なわけないよ。むしろこっちが助かってるのに」
「では、一緒に帰りましょうか。……すぐに済ませてきますので、少しだけ待っていてくださいね」
「うん。待ってるね」
  行ってきますね、と言い残した学人に小さく手を振って、遠のいていく彼の背を見送る。悴んでいた手の冷たさはいつしか意識の外へと追いやられ、代わりに胸の奥に灯る優しい熱が身体の隅々まで行き渡っていくような心地がした。


 
  お待たせしました、と遊我のもとに戻ってきた学人は、普段よりも心なしか早足のように見えた。規律正しい彼にしては、随分と珍しいことだ。わざわざ遊我のために急いでくれたのだとわかる分、どうしようもなく嬉しさを覚えてしまうものだから、心というものはつくづく単純なのだと思う。
「さて、帰りましょうか」
「そうだね」
  言うが早いか、真横に立つ学人が細身の傘にすっと手をかけた。落ち着いた色が目の前で大きく花開いて、天から注ぐ雨粒が先端を濡らしていく。そのまま傘を差した学人は一歩先に歩み出て、遊我を手招きした。
  お邪魔します、と導かれるままに傘の中へと入れば、そこはもうふたりだけの空間だ。小ぶりの滴がぽつぽつと傘を弾く音がいやに大きく聞こえて、逆に周囲の喧騒は遠く彼方へかき消されて。人の声が最も綺麗に聞こえるのは傘の中だとどこかで聞いたことがあるけれど、本当にそうかもしれないとなんとはなしに思った。普段並んで歩くときよりも、もっとずっと近い距離。寄り添った学人の身体に腕が触れ、遊我は無意識に手のひらをきゅっと握りしめる。
  実を言えば小学生の頃にも一度か二度、こうして学人の傘に入れてもらったことがあった。そのときには別段意識なんてしてなくて、ただ単純にありがたいと思うばかりだったのに。それなのに今はなんとなくむず痒いような、面映いような心地でいっぱいだった。
  今日の授業のこと。休み時間のこと。作りかけのロードのこと。ラッシュデュエルのこと。いくつもの他愛もない話を重ねる最中、遊我はふと視線を上げて学人を見遣った。横からでもわかるほどに整った顔立ちは一見すると厳しそうにも見えるけれど、実際には想像よりもずっと豊かに表情を変える。互いに身長も伸び、昔よりはいくらか差も縮まったと信じたいものの、まだまだ学人を追い越すにはほど遠いだろう。ふふ、と品よく笑んだ拍子に揺れた睫毛にさえ、つい見入ってしまう。
  すると不意に、澄んだあおい瞳と視線がかち合った。突然のことに心臓は跳ね、そのままバクバクと早鐘を打つ。きっと何気なくこちらを向いただけなのだろう。学人は小さく首を傾げ、「遊我くん?」と呟いた。
「ええと、その……私になにかついていましたか?  もしくはどこか変、だとか……」
「えっ!?  ううん、全然そんなことないよ」
「そうですか?  ならいいのですが……」
  学人はわずかな逡巡ののち、自身の胸にそろりと手を当てる。それからすっと目を細め、口元を緩めた。
「……だめですね。自分から言いだしておいて、こんなに……、……」
「……学人?」
「……いえ、なんでもありません。忘れてください」
  そうして学人はふ、と静かに息をついた。彼の白い頬にうっすらと差した朱に気がついて、遊我は心の内で密かに「可愛いなあ」と呟く。どこか恥じらいの滲む彼の表情は微塵も忘れられそうにないけれど、ひとまずは頷いておくことにした。
  しとしとと降り続く弱い雨は、相変わらず適度に心地よい音を奏でている。けれどもこの先にある分かれ道に近づくにつれ、ふたりの歩調はどちらともなく緩んでいった。一歩、また一歩と歩みを進めるごとに、足元ではぴちゃぴちゃと水滴が小さく弾む。――もう少し、長くいられたらいいのに。際限なく湧いてくる己の欲深さを自覚しながら、遊我はわずかにその身を学人へと寄せる。
「……ね、学人」
「はい、なんでしょうか」
「もし学人さえよければ、なんだけど。……少しだけ、雨宿りしていかない?」
「雨宿り、ですか」
「研究所ならそんなに遠くないし、もうちょっと学人といたいから。……どう?」
  雨粒が水面に滴り広がっていく波紋のように、見上げた先の瞳がわずかに揺れる。学人は一瞬、ほんの少しだけ目を伏せて、それからじきに穏やかな微笑みを浮かべた。
「……では、お邪魔してもよろしいですか?」
「うん、もちろん」
  厚い雲が覆い尽くす灰色の空に向かう一輪の花。その大きな花弁の下で、内緒話をするように言葉を交わして。今はまだ、それだけでよかった。
  いつの日かこの想いをまっすぐに伝えられたならば、そのときはきっと。綺麗な虹のかかる晴空を、君とふたりで見られますように。