おいしさ、しあわせ、はんぶんこ

大学生同棲設定

ただいまー、と間延びした声が玄関先から聞こえて、学人はモニターに向けていた目線を上げた。まっすぐリビングにやってくるかと思われた人影は、その途中で立ち止まってなにやらガタゴトと物音を立てている。程なくしてリビングの扉が開くと、ただいま、と遊我がもう一度声をかけてきた。
「お帰りなさい、遊我くん。夕食の支度はできていますから、少し待っていてくださいね」
「うん、手伝うよ」
「ありがとうございます」
  学人は作成中のレポートを手早く保存すると、ノートパソコンの電源を落とした。課題用の資料とともにまとめて片してから、ひと足先にキッチンへと向かった遊我の後を追う。
  遊我の大学進学とほぼ同時期に始まったルームシェア――いや、同棲生活は今日までの数ヶ月間、大した波風も立つことなく比較的順調な日々を重ねていた。時には些細な喧嘩もありはするのだけれど、恋人同士である前に他者と生活をともにするのだから、多少の齟齬は想定の範囲内だろう。そのたびに互いの主張を摺り合わせることで、小学生の頃からの縁は今もなお優しい関係として繋がり続けている。
「学人、これ持ってっていいの?」
「はい、お願いしますね」
  冷蔵庫の中を覗いている遊我に声をかける傍ら、学人はコンロの前に立つ。鍋の蓋を開けるやいなや湯気がふわりとあふれ出して、つやつやのカボチャが姿を現した。ほのかな甘い香りが鼻腔をくすぐって、夕刻の空腹感を刺激する。するとおひたしの入った小鉢を手にした遊我が、学人の背後からひょっこりと顔を出した。
「わ、おいしそう!」
「今日はいいカボチャが手に入りましたので、煮物にしてみました」
「やった。ボク、学人の作る煮物すっごく好き」
「ふふ、それはよかったです」
  おなかすいた、と言いつつリビングに向かう遊我をにこやかに見送って、学人は煮物を皿へと盛りつけた。日頃、交代で家事を分担しているのだが、こうして喜ばれると食事も作り甲斐があるというものだ。遊我は苦手な食材が入ってさえいなければ大抵なんでも「おいしい」と言ってくれるため、学人としても内心助かりはしている。だからこそ逆の立場となったときにも、極力感謝の意を伝えるようにしていた。
  やがて再びキッチンに戻ってきた遊我が、「そういえば」となにやら前置きをする。開かれた炊飯器の中からは、炊き立ての白飯がほかほかと湯気を漂わせていた。
「今日さ、アイス買ってきたんだ。なんとなく食べたくなって」
「……ああ、なるほど。先ほどの物音はそれでしたか」
  遊我が帰宅した際、リビングの手前で聞こえた物音。あれは冷凍庫を開ける音だったのだと、ようやく合点がいった。煮物の入った皿を手に、学人は穏やかに微笑む。
「ありがとうございます、遊我くん。食後にでも食べましょうか」
「うん、そうしよ」
  茶碗にご飯をつぎ終えた遊我とともにリビングへと戻り、そのまま手早く配膳を済ませる。それから向かい合うようにして座って、いただきます、と揃って手を合わせた。
「んー、おいしい!」
  真っ先に煮物に手をつけた遊我が、頬を緩める。その表情につられつつ、ありがとうございますと口にして学人も箸を伸ばした。程よく味の染みたカボチャとインゲンに、絡み合う挽肉の旨味。小松菜のおひたしは刻んだお揚げと鰹節が、バランスよく散りばめられている。我ながら会心の出来だと、学人は心の中でそっと頷いた。
  目の前で食事をする遊我を、なんとはなしに見遣る。こうして他愛もない話を重ねながら食卓を囲む生活に、日々幸せを感じるばかりであった。遊我とはかれこれ十年近くの付き合いとなるが、未だに飽きることはひとつもない。むしろ出会った頃よりも、日毎に愛おしさが増していくようだった。
  互いに望み、望まれて、傍にい続けて。できるならばこれからも、と深く考えるようになった。そのためには近い未来に必ず乗り越えなければならない壁もあるのだけれども、遊我とふたりならばきっと。そう願ってやまない。
「……遊我くん、口許についてますよ」
「えっ、どこ?」
「右側ですね」
「……ん、取れた?」
「ああ、すみません。私から見て右側なので、遊我くんからしたら反対……って、私が取ったほうが早そうですね」
  言うが早いか、学人はすっと手を伸ばして遊我の口許を指の腹で優しく拭った。そのまま指先を口に運び、なんの気なしに舌で舐め取る。取れましたよと言うと、心なしか遊我はほんのりと頬を赤らめていた。
「……なんか今、すごく子供扱いされた気分。でもありがと、学人」
「いえいえ」
  どこか拗ねたような遊我が可愛らしくて、ふっと笑みを洩らす。笑わないでよ、とむくれた素振りをする遊我にすみませんと謝って、学人は愛おしげに目を細めた。

  夕食を終え、ふたりで片づけまで済ませたところでようやくひと息ついた。いつの間にかちゃっかりと学人の隣に移動してきた遊我が、帰路の途中で買ってきたのだというアイスをふたつ机上に並べている。二個入でパッケージされているそれは、柔らかな餅の中にアイスの入った商品だ。
  一方は季節限定のチョコレート味。そしてもう一方は定番のバニラ味だが、どうやら普段とは違う特別仕様らしい。まるいアイスを満月に見立てたお月見バージョンとは、まさしく今の季節にぴったりだと言える。
「ねえ、学人はどっちがいい?」
「遊我くんが買ってきてくれたのですから、先に選んでいただいて構いませんよ」
「……あ、じゃあどっちもはんぶんこする? ちょうど二個ずつ入ってるんだし」
「それもそうですね」
  遊我の提案に頷いて、学人は手元にあったバニラ味の蓋を剥がした。見ると、確かによく見知ったものとは違う色をしている。バニラアイスを包んでいるのは秋季限定お月見バージョンに相応しい、淡い黄色の餅だ。
「わ、ほんとに月っぽいね」
「本当ですね。……おや、こんなところにメッセージが書いてあるのですね」
「そうなんだ? ぜんぜん気にしたことなかったや」
  学人の剥がした蓋裏には、このアイスのイメージキャラクターからのメッセージが記されていた。可愛らしいうさぎによる手紙にはほっこりとした優しい内容がしたためられており、思わず心があたたまるようだ。
  それをすぐ隣で見ていた遊我も、チョコ味のアイスを開封した。そちらの蓋裏にも同様に、けれどもまた違う文章が書かれている。
「へえ、面白いね」
「ええ、ついつい読んでしまいたくなります。……さて、溶けきってしまわないうちに頂きましょうか」
「そうだね。……はい、これ学人の分」
  言いながら、遊我は備えつけのピックでチョコアイスのひとつを取る。ありがとうございますと口にして、学人もまたお月見アイスのひとつをピックで持ち上げた。そうして互いのアイスを交換すれば、手元にあるのはそれぞれひとつずつのチョコブラウンと淡い黄色。色の違うふたり分の幸福に、学人はそっと手をつける。
「おいしいですね、遊我くん」
「うん、すっごくおいしい。学人と分けっこしたからかな」
「そうですね。……ええ、きっと」
  口いっぱいに広がる味わいは、甘くて優しい幸せの味。傍にあるぬくもりに寄り添いながら、学人はひと口ずつ確かに噛みしめていく。
  楽しいこと、悲しいこと、嬉しいこと、大変なこと。幼い時分から遊我と積み重ねてきたいくつもの出来事は、今となってはどれも大切な思い出だ。そして今この瞬間も、そのひとつとして刻み込まれていくのだろう。これからもこの人と優しい時間を紡いでいけたのならば、どれほど心は満たされていくことだろう。
  遊我くん、と呼びかければ、なあにとすぐに返事が返ってくる。ただそれだけで、こんなにも胸の奥からあたたかな気持ちがあふれてくるのだから。きらめく翠の瞳に映る己の姿に、学人は満ち足りた面影を見た。