雨に隠れてキスしよう

窓の外に咲くカラフルな傘たちを横目に、遊我はひとり静かに廊下を歩く。昼過ぎから降り始めた弱い雨は、放課後となった今でもまだ止みそうにはなかった。今朝方に見た天気予報が正しければ、恐らく夜中まではこのまま降り続けるのだろう。鞄の中に収まった折りたたみ傘は、今か今かと己の出番を待ち侘びている。けれども遊我はただまっすぐに、目的の場所へと向かっていた。
  雨の日の校舎は、心なしか常日頃よりも音がよく響く。故に自らの足音もまた、どこか弾んで聞こえるような気がした。きっとそれは、雨降りのせいだけではないのだけれども。
  暫く歩いて辿り着いた生徒会室の前で、遊我は一度足を止める。この扉の向こう側に、今日も彼はいることだろう。迷うことなく先へと進めば、机に向かって書類を見つめているそのひとが、遊我の目に留まった。
「お待たせ、生徒会長」
「……ああ、遊我くんでしたか」
  遊我の存在に気がつくやいなや、それまで真剣な眼差しを書類に向けていた学人の表情がふわりと綻ぶ。一見クールに見られがちな顔立ちをしていながらも、彼は存外感情豊かだ。ころころと移り変わる表情は見ていて飽きることがない。けれどやはり遊我にとっては、嬉しそうに笑う姿が一等好きだった。
  手元の書類を軽く片した学人は、荷物を持って遊我の元へとやってくる。今日は元々一緒に帰る約束をしていたからか、すぐに終わるような仕事だけを確認していたのだろう。僅かに空いた時間さえ職務を全うしようとするのは、常に真面目な彼らしいとも言える。遊我としてはもう少しくらい休んでもいいように思うが、無茶をし過ぎていない限りは彼の好きにさせるべきだとも思っていた。
「じゃ、帰ろっか」
「なっ……!」
  言いながら、遊我はやんわりと学人の手を取る。学人は一瞬なにかを口にしかけたようだったが、すぐに押し黙った上で、そろりと手を握り返してきた。彼が一度言いかけたのは大方、校内で手を繋いだことに対する抗議の言葉だろう。それでも離そうとしないのは、名残惜しいとでも思ってくれているのだろうか。
  遊我は気を良くしながら、学人とともに昇降口へと向かう。人目を気にしているらしい学人は未だ落ち着かない様子であったが、遊我は敢えて何気ない話題を振った。
「雨、やまないね」
「……そうですね。そうだ、遊我くん。傘はちゃんと持っていますか?」
「うーん。ボク、今日忘れちゃったんだよね」
「えっ!?」
  若干の困り顔を浮かべ、遊我はあっけらかんと言ってみせる。すると案の定、学人は大きく目を見開いた。傘を忘れたというのは、もちろん嘘だ。そもそも遊我は大抵の場合、折りたたみ傘を鞄に忍ばせている。それでもわざと嘘を言ってのけたのは、ひとえに遊我が「相合い傘」というものに興味があったからだった。
  学人の性格上、朝の天気予報はまず確認しているに違いない。故に今日、学人が傘を持っていることは明白だった。そして優しい彼のことだから、困っている友人が――ましてや恋人がいれば、少なくとも途中までは傘に入れてくれるだろう。残念ながら遊我と学人とではかなりの身長差があるものの、せっかくの機会なので一度くらいは試してみたいというのが本音だ。
「そういう生徒会長は、傘持ってるの?」
「もちろんです。天気予報でも、午後から雨だと言っていましたからね」
「そっか、さすがだね。……ねえ、よかったらさ。途中まで傘、入れてってくれない?」
  遊我がそう持ちかけたところで、ふたりはちょうど昇降口へと辿り着いた。遊我がそっと手を離せば、学人は遊我を一瞥したのち、自らの鞄を探り始める。そして然程の間を置くことなく、鞄の中から落ち着いた薄紫の折りたたみ傘が取り出された。持ち運びに適した細身の傘が、すらりとした学人の指先でゆっくりと開かれる。そしてそれはどこか控えめな手つきで、遊我のほうへと傾けられた。
「その……、私のでよろしければ、入りますか?」
  学人は頬をほんのりと色づかせながら、遊我の顔を覗き込んでくる。彼の言葉に頷くと、学人はふっとはにかんだ。おじゃまします、と口にしてから、遊我は学人へと少しばかり身を寄せる。そして傘を持っていないほうの手を再び取れば、やはり離されることなく彼に握り返された。
「……行きましょうか」
「うん」
  ひとつの傘の下、ふたりはどちらともなく歩き始める。外へ一歩踏み出せば、ぽつぽつと雨が傘に当たる音がふたりの間に響いた。
  遊我はふと、ちらりと目線を上げる。そこで学人の肩がうっすらと雨に濡れていることに気がついた。幾らふたりが小学生とはいえ、折りたたみ傘ではさすがに狭かったのだろう。相合い傘に興味はあったけれども、そのせいで学人が風邪でも引いてしまえば元も子もない。現状、遊我を気遣った彼がわざと傘を傾けているのだということは、あまりにも想像に易かった。
「ねえ、」
「遊我くん、濡れていませんか?」
「えっ?  ボクはいいよ、借りてる身だし。それより生徒会長のほうこそ、このままじゃ風邪引くよ?」
「いえ、これくらいなら平気ですよ」
「だけど、」
「……ならばもう少しだけ、傍に寄ってもよろしいですか?」
「うん、もちろんだよ」
  遊我が小さく頷くと、今度は学人のほうから身を寄せてくる。仄かに香る彼の香りと、心地のよい温もり。先ほどよりもずっと近くに彼を感じるせいか、遊我の胸は思わず高鳴った。
  学人と交際を始めてから、既に何度も手を繋いだし、キスだって経験済だ。だからこれくらいの距離も、別段初めてというわけではない。それなのにこんなにも落ち着かないのは、雨の日の魔法にでも掛けられたような気分だった。
  学校を出たときよりも幾分強まった雨脚は、傘に大粒の雫を滴らせる。薄紫の傘の下、やけに大きく聞こえるのは、ふたりの声と雨音ばかり。まるでこの場所だけが、静寂な世界から切り取られたかのようだ。遊我はそのとき不意に、以前どこかで聞いたような話を思い出した。
「……あのさ、生徒会長」
「どうしました?」
「人の声が一番綺麗に聞こえるのって、傘の中なんだって。確か人の声が雨粒に反射して、音が共鳴するから……、だったかな」
「へえ……。遊我くんは物知りですね」
  なるほどと感嘆しながら、学人は穏やかに微笑む。きっと今、そんな話を思い出したせいだろう。彼の声は心なしか普段よりもうつくしい色を纏い、遊我の耳に届いているような気がした。
「学人」
  ふと思い立ち、遊我はあまり口に出さない彼の名をそっと紡ぐ。唐突に名を呼んだせいか、学人の肩が小さく跳ねるのが目に留まった。いい加減慣れてもいい頃だとは思いながら、しかし遊我は彼の可愛らしい反応は嫌いではない。いや、寧ろ愛おしさすら感じるのだ。
「ねえ。……キス、したいな」
「ゆっ、ゆ、遊我くん……!?」
「だめ?」
「だめもなにも、外ですよ!?  幾ら人通りが少ないとはいえ、誰かに見られる可能性が……!」
「ふうん。じゃあ、見られなきゃいいんだ」
「そういう問題では……、っ!」
  遊我はおもむろに、学人の身体をぐっと引き寄せる。そして彼の手から傘を奪い、そのままかたちの良い唇に軽く口づけた。
  一瞬、ほんの一瞬触れただけのキス。けれども学人から可愛らしい反応を引き出すには、それだけで充分だ。その証拠に、学人の頬は熟れたりんごのように紅く染まっている。遊我くん、と抗議じみた口調で名を呼ばれたところで、恐ろしくもなんともなかった。
「なあに、学人」
「っ、ずるいです。……なんだか私ばかりが、どきどきさせられているみたいで」
「そうかな?  そんなことないと思うけど」
「だって遊我くん、」
「なら、確かめてみる?」
  遊我はすっと目を細め、まっすぐに学人を見つめる。透き通った蒼い瞳が揺れ、彼の息を呑む音が聞こえた。小さく頷いた学人は、あいも変わらず耳の先まで紅潮している。
  研究所までの距離は、気がつけば既に目と鼻の先だ。さて、これから彼となにをして過ごそうか。一先ず、温かいココアでも淹れたほうがいいかもしれない。などと思いを巡らせながら、遊我は学人に微笑みかけた。

千蓮の遊ガクへのお題:雨にかくれてキスしよう/(そのとなりの席に誰がいたの)/
はじめから飛べるわけもなく(https://shindanmaker.com/122300