秘密の放課後

窓の外から射し込む穏やかな西日が、優しく室内を包み込む。静寂に満ちた生徒会室で、学人はひとり黙々と事務をこなしていた。普段ならば傍に仕えている蘭世と凜之介も、今は不在だ。というのも既に作業の大半を終えているため、彼らには一足先に帰宅するよう伝えていた。
  皆から生徒会長を任されている以上、その職務は責任をもって果たさねばならない。苦労の多い立場ではあるものの、学人が決して手を緩めないのは、ひとえに寄せられた信頼に応えたいという思いが強いからであった。幸い、今取り掛かっている仕事にも目途が立ってきた頃合いである。
  ――もう一息だ。学人は息を吐き、気を引き締め直してから手元の書類へと向き直る。そして紙上にペンを走らせようとした、そのときだった。生徒会室の外からだろうか、不意にぱたぱたと軽快な足音が耳に届く。無論、廊下を走る行為は校則違反だ。生徒会長としてきちんと注意をしなくては、と学人はその場に立ち上がった。
  瞬間、学人の目の前にある扉がすっと開かれる。廊下から勢いよく飛び込んでくる、少し背の低い人影。それは正しく、ひとつ下の学年に所属する少年のものであった。
「生徒会長ー、いるー?」
「遊我くん……!?」
「あ、いたいた!」
  少年――遊我は学人の姿を見とめるなり、人好きのする笑みを浮かべながら傍へと駆け寄ってくる。ふわりと蕾が綻ぶような彼の表情に、学人の心臓は無意識のうちに弾んだ。すると今度は手の甲に温もりを感じ、思わず息を呑む。
  僅かな困惑と、それ以上のときめき。学人はごく自然に握られた手と遊我の顔へ、交互に視線を投げかけた。
「ゆ、遊我くん、その……」
「ね、仕事終わった?  途中まで一緒に帰ろうよ」
「ええと、もう少しで終わります……けど」
「なんだ、そっか。ならボク、ここで待ってるね」
  すると遊我はふっとはにかみ、まるで何事もなかったかのように学人の手を解放する。そして近くにあった椅子を引き寄せると、そのまま学人の向かいへと腰掛けた。ごそごそと自身の鞄からカードを取り出す彼を見つめながら、学人もまた自らの席へと座り直す。それから心を落ち着かせようと深く息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。
(集中、集中しなくては……)
  自身にそっと言い聞かせ、学人は再び机上の書類に目を落とす。だがどうにも近くに座る存在が気にかかり、紙面に記載された内容は頭に入ってきやしなかった。学人は視線だけを動かし、ちらりと遊我のことを盗み見る。
  こちらの視線にはまだ気がついていないのか、遊我はデッキの調整に夢中になっていた。まだ幼さが抜けきらない顔立ちに、大きく澄んだ萌黄の瞳、それからカードに触れる指先。その何れもが学人の視線を捉え、離そうとしない。
  生まれて初めてできた、「好きなひと」。そして、初めての「恋人」。まだ始まって間もない彼との関係を、自分ばかりが意識してしまっているような気分だった。遊我とふたりきりになる機会など、これまでにも度々あったはずだ。だというのに、今まで何とも感じなかった状況も彼への想いを自覚したことにより、がらりと一変してしまった。そう、まるで世界の天地がひっくり返ってしまったように。
  吸い寄せられるがままになっていた視線を自覚し、学人ははっと我に返る。こんなことではいけないと自身を叱咤し、またもや手元の書類へと意識を集中させようと試みた。けれどもやはり長くは続かずに、学人は悶々としながらも自然と遊我に意識が向く。すると不意に、うつくしい翠の双眸と視線がかち合った。
「っ、ゆ……遊我くん……?」
「なあに、どうしたの?」
「い、いえ……。なんでもありません」
「そう?  ……ふふ」
「……なにがおかしいんですか」
「ん?  ……や、かわいいなって思って」
  目の前の遊我が柔く微笑みながら、静かに立ち上がる。学人は椅子に腰掛けたまま、咄嗟に距離を取ろうとした。だがそれよりも早く、遊我の少し小さな手のひらが学人の頬へと触れる。普段は見下げている彼の顔が、今は吐息さえかかるほどすぐ傍にある。温かくて優しい手つきで撫でられてしまえば、早鐘を打つ鼓動を落ち着かせる術など思いつくはずもなかった。
「ね、生徒会長。ボクのこと、ずっと見てたでしょ」
「き、気付いて……!?」
「気づいてないと思った?」
「っ……」
  遊我はすっと目を細め、それからゆっくりと顔を近づけてくる。――学人、と。普段あまり呼ばれることのない名が、彼の声に乗って学人の聴覚を擽った。耳元から伝わる熱はじわりじわりと頬を染め、身体の隅々までを火照らせていく。無自覚に零れた吐息さえ、どこか熱っぽさを孕んでいた。
「ボク、学人とキス……してみたいな」
「き、ききき……!?」
「……ねえ、だめ?」
「う……あ、だ、だめですだめに決まってます……!  ここは学校ですよ!?  生徒会室ですよ!?  それに……それに、もし誰かに見られたら……!」
「はは。もう下校時刻も近いし、誰も見やしないよ。……それとも学人は、ボクとしたくない?」
「い、いえ、決して遊我くんとしたくないというわけでは、っん……!」
  刹那、柔らかなものが触れる。言葉を紡ぎきらぬうちに、唇へと。反射的に、学人はきゅっと固く目を瞑った。森閑とした生徒会室に響くのは、ただ二人分の衣擦れの音だけだ。この場所だけが、世界から密やかに切り取られてしまったかのようだった。
  数分、いや数時間にも感じられる長い長い一瞬が過ぎ、遊我がそっと学人の元から離れていく。そうして眼前に戻ってきたのは、どことなく面映ゆそうな遊我の顔。まろく柔らかな彼の頬には、うっすらと夕陽のいろが透けていた。
「……ごめん、待てなかったや」
  静まることを知らない胸の鼓動は、今もなお学人の内側で激しく高鳴っている。きっと既に、遊我にも聞こえてしまっているのではないかと思うほどに。
  ――ああ、もう知らない。手元に残されているこの書類も、締切はまだ幾分か先のはずだ。それならば、明日の朝にでも続きをすればいいではないか。学人は心の中で明日の自分に仕事を託し、静かに立ち上がる。そして僅かに遊我から目を逸らしたのち、再び彼に向き直った。
「……ゆ、遊我……くん」
「ん、なあに?」
「……もう一度、その……したい、です」
「うん。ボクもしたいな」
  そうして遊我と学人は、どちらともなく唇を重ねた。繊細な場所を触れ合わせるたびに学人を満たすのは、ほんの少しの背徳感と、それを裕に上回る多幸感。心の奥から温かな感情が止め処なく溢れ、それでいて地に足がついていないような感覚に見舞われるようだった。
  覚えたての行為を反芻するように、机上に落ちるふたつの影は幾度となく重なっていく。ふたりが夢中になって稚拙なキスを繰り返していると、不意に聞き慣れた鐘の音が耳に届いた。《家路》のメロディーに重なる合成音声が最終下校時刻を知らせ、生徒たちの帰宅を促している。窓の外ではカラスが鳴き、茜色の空を羽ばたいていた。
「……さて、帰りましょうか。遊我くん」
「あれ?  仕事、終わってないみたいだけどいいの?」
「いいんです。……もう、下校時刻ですからね」
「ん、そっか。なら、一緒に帰ろう?」
「ええ、そうですね」
  自然と緩む頬を抑えぬまま、学人は机上の書類を手に取る。そして数枚の紙を一か所に纏め、そのまま机を隔てた先にいる遊我の元へと回った。すると指先がつと、遊我の手に触れる。僅かな逡巡の後にそろりと指を絡ませれば、至極当然と言わんばかりに手のひらを握り返された。
  触れあった指先から穏やかな熱が伝い、身体中を優しく包み込む。今まで知らなかった感情が、遊我の傍にいるだけでこんなにも自身に芽吹いていくだなんて。学人は重ねられた手のひらにそっと力を込め、隣の少年を見遣った。
「……私を迎えにきてくれてありがとうございます、遊我くん」
  言葉に応えるように顔を綻ばせる遊我の表情が、今の全てだ。願わくは、少しでも長く彼の傍にいられますように。絡む指先を離さぬまま、ふたりは仄かな宵闇に包まれる生徒会室をあとにした。