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つい数週間前まではあんなにも暑さが残っていたというのに、気がつけば次第に冬の足音が迫りつつある。金木犀の香る街角、心地よい秋の風。まだらに散りばめられた薄い鱗雲が、高く澄んだ空を彩っていた。――秋は好きだ。深みのあるチェロの音がなんとなく似合う気がするし、なにより大切な弟の誕生日があるから。
惟世の弟である七瀬は幼い頃から身体が弱く、幾度となく入退院を繰り返していた。闘病生活の最中にある弟の手を握りながら、もしかすると今年こそ最後の誕生日かもしれない、などという不謹慎な考えが脳裏に過ってしまったことも一度や二度ではない。考えるべきではないと強く思っても、心にこびり着いた不安感が当時の惟世をひどく苛んだ。それは恐らく家族の誰しもが同じであり、ゆえに七瀬の成長を祝う節目には盛大に祝福をしたものだ。手術を経てひとまず元気になった今でも、季節が巡るたびにやってくる七瀬の誕生日にはどうしても安堵が込み上げてくる。
今日は惟世が七瀬とともに横浜へ来てから、初めて迎える誕生日だ。夜になれば、スタオケのメンバーが七瀬の誕生日会を開いてくれることになっている。気のいい彼らとならば、きっと賑やかで楽しいひとときを過ごせるに違いない。とはいえ、やはりふたりきりで誕生日を祝いたいという想いが多少なりともあったものだから、惟世は一瞬だけ悩んだ末に七瀬を連れ出したのだった。
隣と歩く七瀬をちら、と見る。秋風に儚く攫われてしまいそうだった弟も、今では随分と大きく立派になったものだ。その成長を喜ばしく思う一方で、いつの日か七瀬も兄の手を離れていくのかもしれない、と得も言われぬ寂寥を感じるのもまた事実だった。普通の兄弟からしてみれば至極当然である「兄離れ」を名残惜しく思うのは、淋しさともまた違った感情に起因しているのだと、惟世はとうに自覚している。――願うことならば、弟の手を離したくない。ずっと傍で笑っていてほしい、だなんて。そんな己のエゴに塗れた想いは、全身で慕ってくれている七瀬本人にすら、まだその全貌を見せる勇気はないけれど。
「七瀬」
そう惟世が呼びかけると、七瀬の表情にはたちまち花が開いていく。依然あどけなさの残るまろい頬がふにゃりと緩むさまは、いつ見ても愛らしくて堪らない気持ちにさせた。それも惟世にだけ向けられた笑顔なのだから、なおのことだ。七瀬の前ではできる限り良き兄でいようと心がけているのに、結局のところはその可愛さの前に敗北を喫するばかりである。
「七瀬はどこか行きたいとこ、あるか?」
「うーん……。お兄ちゃんと一緒ならどこでも楽しいから迷うなあ。……けど、やりたいことならある……かも」
「ん? なんだ、なんでも言ってみろ」
「……お兄ちゃんと手、繋ぎたい」
そう口にした七瀬の白い肌が、ほんのりと朱く色づいている。ちらりと見上げてくる瞳の奥に潜む期待に応えるよう、惟世は小さな手のひらを取った。途端に七瀬の口許が緩み、すぐさま手を握り返される。嬉しい、と独りでにこぼれ落ちたかのような言葉がはっきりと耳に届いて、心臓がきゅ、とわずかに音を立てた。
そういえば、最近はめっきり七瀬と手を繋いでいなかったかもしれない。思えば昔はよく手を繋いで歩いたものだが、歳を重ねるにつれて次第に回数は減っていった。久々に触れた手のひらは、未だ惟世よりも小さいとはいえ、大人の男性のものへと近づいている。あの日の面影を残したながらも確かに成長を感じる感触に、惟世は感慨深ささえ覚えた。たまにはこうして手を繋ぐのも悪くない、なんて呑気に考えている傍らで、七瀬がひしひしと喜びを噛みしめていることに惟世は気づいていない。
それからしばしの間、ふたりは他愛もない言葉を交わしながらゆっくりと坂道を下った。楽しかったこと、嬉しかったこと、どうでもいいようなこと。横浜に来てしばらく経つが、七瀬は七瀬で少しずつだが新たな交友関係が生まれているのがたいそう喜ばしかった。七瀬の口から他者の名前が出るたびに、兄としてはなんとなく微笑ましく感じる。それでも最後には「お兄ちゃん」と呼んでくれるのが、また惟世の心を甘く擽った。
七瀬と積み重ねた時間は、惟世にとっては何物にも代え難い大切なものだ。それは「兄弟」の範疇を超えてしまった今でも変わりなく、いや――むしろより強く感じるようになったように思う。七瀬が惟世の弟として産まれたその瞬間から始まった、ふたりだけの宝物。
そうして長い長い坂の中腹に差しかかった頃、七瀬が不意にどこか改まったような様子で惟世を呼んだ。「どうした?」と穏やかな声で言葉の続きを促してやれば、七瀬は一瞬だけ言い淀んだのち、おずおずと口を開く。
「行きたいところ……というか、これもやりたいことなんだけど」
「ん」
「……このままお兄ちゃんと手を繋いで、ぶらぶら散歩するだけで満足かも、なんて。お兄ちゃんを独り占めできるし、なんか……デートみたいだし」
「おー、そうかそうか」
惟世は手のひらを大きく広げ、七瀬の頭をわしゃわしゃと無造作に撫でた。その手つきを心地よさそうに享受する七瀬の姿に、もっとたくさん甘やかしてやりたいとさえ思ってしまう。程々に満足したところで手を止めた惟世は、ふ、と小さく息をついた。
「……けどな、七瀬。俺としては、もうとっくにデートのつもりだったんだが」
「えっ」
「イヤだったか?」
「そんなわけない……! ただ、嬉しくて……ちょっとびっくりしただけだよ」
「ん、なら良かった」
デート、と反復する七瀬の小さな独り言がふと聞こえてきて、思わず口許が緩みそうになる。もう少し歩けば見晴らしの良い公園があるから、そこで小休憩でもしようか。心なしか先ほどよりも身体を惟世に寄せて歩く弟の仕草を可愛らしく感じながら、七瀬と触れ合ったままの手にそっと力をこめた。
高台に位置する公園は、休日というのも相まってそれなりの賑わいを見せていた。柔らかな風が頬を撫で、潮の香りがかすかに鼻腔を掠めていく。
惟世と七瀬は手を繋いだまま、広場の階段を上った。そこから一望できるみなとみらいの街並みは、横浜でのお気に入りスポットのひとつだ。古都と呼ばれる地元とはまた違った美しさが、どこか新鮮に目に映る。惟世は欄干の近くにまで行くと、深く感嘆を洩らした。
「おお! やっぱキレイだなー、ここ」
「そうだね、お兄ちゃん。……お兄ちゃんと一緒だから、今日はいつもよりも綺麗に見えるんだと思う」
何気なく隣を見遣れば、どういうわけか七瀬と視線がぶつかった。てっきり七瀬も景色を見ていたと思っていたのだが、どうやら違ったらしい。とはいえ当の本人が楽しそうにしているので、まあいいかとすぐに結論づけた。
刹那、先ほどまでよりも勢いのある海風がびゅん、とふたりの間を吹き抜ける。すると七瀬の白い肌に、風に乱れたらしい柔らかな髪の一束がかかっているのが目に留まった。それを指の腹でそっと除けてやれば、七瀬の口からはふふ、と小さな声が洩れる。嬉しいのか擽ったいのか、はたまたその両方か。長い睫毛に縁取られたその奥、薄い影が落ちる瞳の色。いつも見ているはずなのに、なぜだか急に目が離せなくなる。
七瀬、と呼びかけるや否や、惟世は眼前の弟にぐっと顔を寄せた。それから人目を盗むように、ほんのわずかに触れるばかりの口づけをする。そのあまりにも情動的な惟世の行動に、七瀬の瞳はまるく大きく見開かれた。あおい双眸は心なしか涙の膜に潤んでいて、そのさまをみとめてしまえば自ずと二度目に踏み切ってしまいそうになる。けれどもすんでのところで理性が思い止まって、惟世はぐっと息を呑んだ。その代わりに、ほのかに紅潮している七瀬の顔をそっと覗き込む。
「お、お兄ちゃん……」
「悪い悪い。……つい、な?」
「うう……不意打ちはずるいってば……。……ここが外じゃなかったら、もっと、って言えたのに……」
「……なら、このまま帰って続きするか?」
「ううん、まだ帰らない……。ほんとは続きもしたいけど、今はお兄ちゃんともっとデートしたいし……」
言葉を重ねるにつれ、いっそう赤みを増していく七瀬の姿を、惟世は笑顔のまま見つめていた。七瀬の言う通り、我ながらひどく狡い質問だと思う。だとしても即座に首を横に振り、素直な感情を吐露してくれる弟が愛おしくて堪らなかった。
「そうだな、俺もだ」
ぽんぽん、と幾度か軽く七瀬の頭を撫で、惟世は静かに息をつく。それとともに「ああ、幸せだな」と心の中に浮かんだ想いが、自然と口からまろび出ていた。今日という佳き日を大切に思う気持ちは、もしかすると己の誕生日よりもなによりもずっと強いのかもしれない。――この世界でたったひとりの弟。惟世にとって唯一無二の、「七瀬」という愛しい子に出会えた記念日を。
「……七瀬。改めて、誕生日おめでとう。俺の弟に産まれてきてくれて、本当にありがとな」
「お兄、ちゃ……。……そんなの、僕のほうこそ……! 僕が今こうして生きていられるのも、全部全部お兄ちゃんのおかげなのに……っ」
「それはな、七瀬が生きたいって思ってくれたからだ。今年もまた七瀬の誕生日を祝えて、兄ちゃんは幸せ者だな!」
瞬間、人目を憚ることなく抱きついてきた七瀬を、惟世は両の腕でしかと受け止めた。か細くすすり泣く声が耳に届いて、ゆっくりと優しくあやすように背を撫でる。
生きるだけでも精いっぱいだった弟が、今ではこんなにも大きく元気に成長してくれた。そしてなにより、今をともに生きてくれている。それだけでも充分幸せなはずなのに、兄として人として惟世を慕ってくれているのだ。できるならば、これからも七瀬の笑顔をすぐ傍で守っていけたなら。そう願わずにはいられない。
(あー……ほんと、兄ちゃん失格だなあ)
惟世は内心で静かに自嘲しながら、抱きすくめたままの弟を見つめる。七瀬もようやく落ち着いてきたのか、既に泣き止んでいたようだった。まだ少し涙に濡れた瞳と視線がぶつかり、わずかに心臓が跳ねる。なんだか思い出してはならない光景が頭を過りそうになったところで、惟世は努めて大きな声を出し、七瀬に笑いかけた。
「……よし、じゃあそろそろ行くか!」
「うん。……ねえ、お兄ちゃん。今日は僕のしたいこと、なんでも言っていいんでしょ?」
「もちろんだ! なんたって七瀬の誕生日だからな」
「やった。お兄ちゃんと一緒にやりたいこと、いっぱい考えとくね」
どうしようかな、ありすぎて迷うな、などと楽しげに思案し始めた七瀬の手を引いて歩き出す。まずは中華街に行って腹ごしらえをするのもいいかもしれない。惟世がそんな提案をすれば、すぐさま賛成の声が返ってきた。食べ物のことを考え始めたせいか、途端に腹の虫が活発に活動を始める。その音にふたりして顔を見合わせて、どちらともなく笑みを浮かべた。
なんでもない日常を元気に過ごせるということ。それもまた「幸せ」であると、充分すぎるほどに知っている。ごくありふれた、けれども確かに特別な一日を、一秒でも長く過ごせますように。繋いだ手から伝わる愛おしいぬくもりを感じながら、惟世は十月の空を仰ぎ見た。