暑さの残る九月半ば、秋の足音はまだ少し遠い。それでも数週間前に比べると気温も落ち着いてきており、季節の移ろいを感じる今日この頃だ。
日没を過ぎ、先ほどまで茜色だった空は段々と深い蒼に染まっている。薄ぼんやりとしていた月の影も、気がつけば淡い光で夜の始まりを知らせていた。つまるところ、楽しくて幸せな一日の終わりがゆっくりと近づいている。
今日は本当にいい一日だった。日頃の不運は今日の幸運のためにあるのかもしれない、なんてつい思ってしまう程度には。だって仕方がないだろう。でかけた先は平常通りに営業していて、動物たちにちょっかいをかけられることもなく、おまけに突然の雨に降られもしなかったのだから。
世間一般からしてみれば「普通」のはずのそれも、人よりもなぜかちょっとした不運に見舞われがちな星のもとに生まれた蒼司にとっては充分「幸運」の範疇だ。――ただの偶然か、はたまた今日が蒼司の誕生日だから許された……のだろうか。別にどちらでもいいといえば、それまでの話ではある。それでも今日という一日を幸せに感じたのは、きっと運がよかったせいだけではない。
繋いだ手と手、今にも触れそうな肩と肩。閑静な住宅街には、ただふたり分の道行く音ばかりが響く。手のひらから伝わる体温は己よりも幾らか高くて、どこか擽ったさもありながら、それ以上に心地がよかった。
蒼司はすぐ隣を歩く横顔をちらりと見、声をかける。幼子の頃からともに育った幼馴染であり、唯一無二の親友であり、時にはライバルであり、それから――恋仲でもある大切な存在に。
「拓斗」
「ん、なあに?」
「その……今日はありがとう、誘ってくれて」
「ううん、俺のほうこそありがとう。……今日は蒼司の誕生日だし、日曜だし、そんなのもうデートするしか! って思ってたからさ」
「なんだそれ。……でもまあ、俺も楽しかった」
満開の向日葵のごとく笑みを咲かせる拓斗に、自然と口許が綻ぶ。今日は本当に拓斗から貰ってばかりだな、と蒼司は心の中で独りごちた。
誕生日にデートをしようと拓斗から提案されたのは、ちょうど二週間前のことだ。行きたいところ、やりたいこと。蒼司の希望を元に、拓斗が入念なリサーチをしてくれて今日に至る。それだけでも充分嬉しかったのに、誕生日プレゼントまで律儀に用意してくれるのが拓斗らしい。
いかんせん拓斗とは付き合いが長いこともあって、なんだかんだで互いの誕生日にプレゼントを贈るのが半ば習慣と化している。とはいえ、蒼司としては誕生日にデートを計画してくれた時点で既にプレゼントを貰ったような気分だった。それでもなにか形に残るものを、といって贈り物をしてくれたのだ。心を満たす幸福を噛みしめるように、繋いだままの手のひらに力がこもる。
この坂を登りきれば、もうじき菩提樹寮だ。ふたりきりの時間が終わるその前に、せめてなにかを言いたくて。拓斗、と呼びかけてから、蒼司はぴたりと足を止める。
「蒼司?」
「……今日の夜、鍵……空けとくから」
咄嗟に口からまろび出たのは、そんな言葉だった。透き通った翠の瞳が大きく見開かれ、かと思えばすっと目が細められる。うん、と静かに頷く拓斗の向こう側で、ただ星たちが小さく瞬いていた。
二十三時を過ぎた頃、その扉は叩かれる。今か今かと柄にもなく浮足立った心をぎゅっと押さえつけ、代わりにでき得る限りの平静を装って。返事を待つことなく開かれた扉の先から現れた待ち人を、蒼司はベッドの上から出迎えた。
「蒼司から誘ってくれるなんて珍しいな」
「……悪い?」
「ううん、めちゃくちゃ嬉しい」
ゆっくりとベッドの縁に腰かけた拓斗に寄り添い、手を握った。これからやることなんてひとつしかない。言葉の代わりに唇を重ねて、互いの温もりを交換し合う行為は、幸福な一日の締め括りには相応しいのではないだろうか。というのは建前で、ただ純粋にもっと深くまで拓斗に触れていたいというのが本音だ。
やがて視界がぐるりと天を仰ぎ、身体は背中からシーツに受け止められる。ぐ、と迫る顔は再び唇に蓋をして、蒼司の呼吸ごと奪い去っていった。――あとはもう、熱情の赴くままに求め合うだけ。
産まれてきてくれてありがとう、大好きだよ。そう言って肌をなぞる拓斗の頬を包み込んで、俺も好きだよと素直な想いを紡いだ。