雷鳴さえも届かぬ場所で

穏やかに流れる昼下がり、仲間たちと過ごす有意義な時間。外の荒れ模様がまるで気にならないほど弾む会話のおかげで、菩提樹寮のラウンジには今日もまた明るい声が飛び交っている。その輪の中に加わっていた惟世は、ふとした拍子に何気なく視線を窓の外へと遣った。
  夜半過ぎから降り始めた大雨は、未だ止む気配がない。空から注がれる大粒の雫は時を経るごとに勢いを増して、窓ガラスを強く叩き続けていた。本来ならば路上ライブを予定していたのだが、この悪天候では致し方ない。結局、今日のスタオケの活動時間は室内練習へと切り替わった。だが今は既にそれも終了し、各々が自由な休日を過ごしているところだ。
  とはいえひどく荒れた空の影響もあって、今は大半のメンバーがこの菩提樹寮に留まっているはずだ。夕方以降にはこの雨も小康状態となる予報だが、どこまで的中するかは天のみぞ知る。天気予報はあくまで予報なのだから、当たるときもあれば当たらないときもあるのが世の常である。遠い空でくぐもった雷鳴が響き、その少し後に分厚い雲へと光が走った。そのとき惟世は、はたと気づく。よく考えると、いつからか七瀬の姿が見えないということに。
  普段の七瀬ならば、なにかにつけて惟世の傍にいたがることが多い。現に木蓮館から菩提樹寮へと戻ってきた当初は一緒にいたのだし、それからしばらくは惟世の隣にいて、会話にも時折ではあるが混ざっていたように記憶している。ただ、惟世が皆との会話に花を咲かせている合間にどこかへ――恐らくは自室へと引き下がってしまったようだ。
  とはいえ七瀬が途中で、それも惟世になにも告げずに立ち去った理由がよくわからなかった。七瀬が惟世に対して、過大に好意を寄せてくれているのは知っている。そこに至る事情は十二分に理解しており、否定するつもりも更々なかった。「ただの兄弟でいるだけでは足りない」と今にも泣き出しそうな顔で打ち明けられたときは、さすがに少しだけ驚いたけれども。
  そんな兄弟の事情は一旦置いておくとして、なぜ七瀬は黙ってこの場から消えてしまったのだろう。ううん、とひとりで唸りそうになったそのとき、ひと際大きな雷鳴が轟くとともに、瞬間的に目が眩むほどの強い光が周囲を包んだ。うわっ、だとか近いね、だとか口々に言葉を発する仲間たちをよそに、惟世の脳裏には先ほどの自問に対する答えがぴしゃりと過る。どうして今の今まで思い至らなかったのだろうか。――七瀬は昔から、たいそう雷が苦手だというのに。
「みんな、すまん。……ちょっと七瀬の様子見てくる」
「七瀬の?」
「ああ。じゃあな」
  コンミス以外の皆がきょとんと首を傾げる中、惟世は足早にラウンジを後にした。七瀬の部屋は、惟世に割り当てられた部屋のすぐ隣だ。迷うことなく部屋の前まで向かい、扉を強めに三度ノックする。
「七瀬」
  だがいくら呼びかけても、室内からの返事はない。どうしたものかとわずかに逡巡したものの、惟世はすぐにもう一度七瀬に呼びかけた。それでもやはり返ってくる声は聞こえてこず、とうとう痺れを切らした惟世は勢いよくドアノブを捻る。
「七瀬、入るぞ」
  どうやら部屋の主は、扉の施錠すら失念していたらしい。案外あっさりと開いてしまった扉に不用心さを感じると同時に、今の心理状態ではそれどころではなかったのだろうと察した。照明もついていない部屋へと足を踏み入れた惟世がひとまず周囲を見渡すと、片隅に設えられたベッドの上でもぞもぞと動く塊が目に留まる。外の音に反応して時折震えているその姿は、まるで小動物のようにも思えた。
「……七瀬」
「っ! ……あ、お兄ちゃ……」
  ベッドの傍で声をかけると、掛け布団の塊からようやく弟が顔を出した。七瀬は一瞬わずかに怯えの滲む視線を寄越してきたものの、すぐに声の主が惟世だと気づいたのか、いくらか緊張を解いたようだった。
  耳に届いた声はかすかに掠れ、戦慄いている。その声色から、彼がよほどの恐怖を感じていたのだとたちまち理解が及んだ。ノックの音も声も届いていなかったのは、雷の音と光を極力遮断するために耳を塞ぎ、掛け布団で視界を遮っていたからなのだろう。暗がりでひとり雷に耐える様子がありありと目に浮かんで、胸の奥が掴まれたような心地を覚えた。
  心の底から込み上げてくるのは、なんとも言葉にしがたい衝動。突き動かされるままにベッドへと乗り上げて、掛け布団ごと七瀬を強く抱きしめる。
「ごめんな、七瀬。すぐに気づけなくて。……兄ちゃんがきたからにはもう安心だ」
「うん……お兄ちゃん……」
「よしよし、怖かったよな。七瀬が落ち着くまで傍にいてやるから。……さ、まずはゆっくり深呼吸だな」
「ん……」
  息を整えながら胸元にしがみついてくる七瀬の背を、手のひらで優しく撫でる。腕の中にすっぽりと収まる身体はいつもよりもずっと小さく思えて、余計に庇護欲を掻き立てられた。風が吹けばかき消えてしまいそうなほどのか弱い灯火を宿していた七瀬も、今では立派な中学三年生だ。昔よりも随分と背が伸びて、体つきも少年から青年への転換期を迎えていた。もはや降りかかるものすべてを払いのけ、一方的に守ってやるばかりの対象ではなくなってきている。
  だとしてもこうして全幅の信頼を寄せ、縋ってくる七瀬の姿はたまらなく愛おしかった。抱きしめた身体から伝わる心音、胸元にかかる息。七瀬が生きている証を肌で感じるたびに、どうしようもなく甘やかしてやりたくなる。甘やかす一方ではよくないとわかってはいても、心のどこかでは未だか弱いままの弟だと思っているのだろうか。――それとも、自分で思うよりも遥かに七瀬を愛しく感じているのか。
  刹那、空が爆ぜるような雷鳴が響き渡り、薄暗い部屋がはっきりと見渡せるほどの光が届いた。反射的に声を発した七瀬が、惟世のシャツをしかと握り締めたまま見上げてくる。水の膜がほのかに張った瞳と視線がぶつかって、瞬間的に心臓が大きく脈を打った。
「ねえ、お兄ちゃん。もう少し、このままでいてもいい?」
「ああ、もちろんだ」
  とん、とん、と七瀬の背にそっと手を当てる。すぐ傍にいるのだと、いつでも守ってあげられるのだと安心させるように。しばらくすると段々と落ち着いてきたのか、先ほどまで強ばっていた七瀬の身体も適度に力が抜けてきたようだった。七瀬は惟世の胸元に顔を埋めたまま、静かに息をつく。
「……お兄ちゃんの匂い、すごく落ち着く」
「そうなのか?」
「うん。あったかくて……ずっとこうしてたいくらい」
  そう言った七瀬の声は、ほんのりと蕩け始めている。もしかすると安堵のおかげか、眠気にでも見舞われてるのかもしれない。惟世はあやすような手つきで七瀬を撫でながら、「眠いなら寝てもいいぞ」と声をかけた。しかしどういうわけか、返ってきたのは「ううん」という否定の言葉だった。それがいやいやと駄々を捏ねる幼子のようにも思えて、なんだか微笑ましい。
  外は相変わらずの大荒れで、時折稲光を走らせては不機嫌さを露わにしている。だというのに、窓の向こうの喧騒がどこか遠くに聞こえた。七瀬とふたりきり、世界中からこの部屋だけが隔絶されたかのように錯覚する。聞こえてくるのは互いの心音と呼吸音、それから衣擦れの音。ただそれだけだ。静寂の外側で起きていることなんて、今この部屋には届かない。
  七瀬、と惟世はそっと呼びかけた。顔を上げた七瀬はまっすぐ惟世だけを見据え、そのあとに続く言葉を待っている。長い睫毛が揺れ、伏し目がちな瞼の隙間からは透き通った瑠璃色の瞳が覗いた。
  可愛くて大切な、たったひとりの弟。けれども今では弟としてだけではなくて、ひとりの人間として彼を愛おしく思っている。だってこんなにもいじらしく一途に想ってくれているのに、心動かされないはずなんてないではないか。無意識下に眠っていた、「兄」という鎖で厳重に縛りつけていた感情。それを紐解いた張本人こそ、泣きそうな顔で告白をしてきたあの日の七瀬なのかもしれない。
  己よりもずっと柔らかくてまるい頬に触れると、七瀬はわずかに目を細めた。七瀬への想いを自覚し、告白を受け入れてからどれほど経っただろう。性急に事を進めるつもりは更々ないが、かといって実の兄弟だから、なんて理由で大切な子に触れるのを躊躇できるほど、惟世とて人間ができているわけではなかった。薄く開いた唇に誘われるように、ゆっくりと顔を近づける。迫る距離の中、ぼやけた視界の端でみとめた七瀬の瞳は大きく見開かれていて、触れた唇はほんのり温かかった。
「えっ、ぁ……お兄ちゃん……?」
  向き直った七瀬は耳まで真っ赤に染まり、心なしか声も上擦っている。その姿がどうにも可愛らしいものだから、自然と頬が緩んでしまうのも致し方ない。
「なんだ、嫌だったか?」
「そんなわけ……! そんなわけ、ない……けど」
「……けど?」
「お兄ちゃんは、僕とキス……とかしたくないんだと思ってたし……。そりゃあ、いつかはできたら嬉しいなって思ってたけど、……お兄ちゃんが嫌なら……」
「あのなあ、七瀬。俺のことを考えてくれるのは嬉しいが、だからといって七瀬ばっかり我慢するのもなんか違うだろ。こういうのは、エンリョせずにちゃんと言ってくれたほうが嬉しいってもんだ。……な?」
  深く頷いた七瀬の頭を撫でながら、惟世はふっと笑みを浮かべる。それにつられて表情を和らげた七瀬を見て、よりいっそう愛おしく思えてしまうのだからしょうがなかった。いつの間にか外は落ち着きを取り戻し、穏やかな雨音だけがかすかに聞こえてくる。しとしとと降り続くこの雨も、明日には止むのだろうか。
  お兄ちゃんと呼びかけられ、返事をする。下から伸びてくる手が惟世の首元を捉え、緩く引き寄せられた。互いの息がかかるほどの距離で微笑む弟は、いつになく大人びて見えて。いつまでも幼いばかりの子供ではないのだと、否が応でもわからされる。色香さえ滲む七瀬の表情をこんなにも間近に見られるのは、きっと惟世ただひとり。そんな得も言われぬ優越感が、瞬く間に背筋を這って駆け上がっていく。
「ねえ、お兄ちゃん。今度は僕からキス……してもいい?」
「ああ、どんとこい」
  重ねられた唇を追って、また触れ合って。そんな追いかけっこを無邪気に繰り返すうち、惟世の心はひどく満たされていく。口づけの合間にもう一度七瀬の名を呼べば、素直に顔を綻ばせるのがどこまでも愛らしいと感じた。
  七瀬と紡ぐこの関係は、決して世間から手放しで歓迎されるものではないのだと重々承知している。なにせ同じ血が流れ、臓器をも分かち合った弟と、普通の「兄弟」を大きく逸脱した行為を積み重ねているのだから。それでも七瀬を大切にしたいという想いだけは、今も昔もこれからも変わらない。変わるはずがない。それにこの関係のせいで、七瀬が不幸になることだけは避けなくてはならないのだ。そのためにも、兄としてだけではなくひとりの人間として、七瀬に降りかかる余計な火の粉は取り払ってやりたいと惟世は切に願う。
  ほの暗い部屋の片隅で交わる逢瀬は、今はまだ陽の光を浴びることはできないけれど。それでもいつか雨が降り止むその日まで、ふたりだけの内緒話を交わそうか。雷鳴も稲光も届かない、この腕の中で。