想い積もりて雪だるま

想い積もりて雪だるま

その日、横浜には雪が積もった。
  カーテンの隙間から洩れる、やわらかな陽の光。起き抜けの体をゆっくりと起こした蒼司は、ぐっと伸びをした。どうやら今日は一段と空気が冷え込んでいるらしい。布団のもたらすぬくもりがあまりにも手放しがたくて、このまま二度寝してしまいたいくらいだ。それでも誘惑をなんとか振り払うと、蒼司は窓辺に向かった。分厚い布地を引けば、カーテンレールの上を軽やかに走る音がする。
  窓の向こう側に広がっていたのは、まさしく白銀の世界だった。真っ白に彩られた庭先を目の当たりにして、蒼司は思わず目を眇める。今日はホワイトクリスマス――などということはなく、至ってただの休日だけれど、それでも。平静を装っていてもなお余りある胸の高鳴りを、蒼司はひとり密やかに感じていた。
(寒いけど……綺麗だな)
  朝の陽射しを受けた雪は、きらきらと眩しい。白ってこんなにも明るい色なんだ、なんて至極当たり前の感想が思い浮かんでしまう程度には、どうしようもなく浮足立っている自覚があった。その証拠に、夏から秋、冬を経てそろそろ見慣れてきた菩提樹寮の庭すらも、今日はなんだか普段と違って新鮮に映っている。地元ではあまり雪が降らないものだから、余計にそう感じてしまうのだろう。
  そっと窓に触れる。しんとした冷たさが指先から伝わってきて、蒼司は身震いした。ただでさえ室内にいても寒いというのに、外はどれほどなのだろうか。そう思えど、蒼司の好奇心がゆっくりと窓を開け放つ。
  静かだ、とまず思った。手のひらで直に氷を握りしめたときのように、確かな冷たさがそこにはあった。しかしながら、頬を撫でる空気は鋭さとともに凛とした清々しさを含んでいる。寒いけれどもどこか心地よくもあって、蒼司はほう、と息をついた。白く曇る吐息は外気に混じって、真冬の空へと優しく溶けて消えていく。
  どうしてだろうか、もう少しだけこの風に当たっていたいと思うのは。つい先ほどまでは、確かに布団のぬくもりを恋しく思っていたはずなのに。
  早朝の空、それから雪景色。静寂に包まれた部屋でひとり、物思いに耽る。そのうちに起き抜けの頭も覚醒していき、蒼司はゆっくりと空を見上げた。一晩かけて雪を降らせた雲も今や見る影はなく、爽やかな快晴が遠くまで澄み渡っている。
  そろそろ窓を閉めようかと思った頃合いになって、ふと廊下の外から足音が聞こえた。そして蒼司の背後にある扉が開いたのと同時に、朝陽ほど明るい声が同じ勢いで飛び込んでくる。――わざわざ振り向くまでもない、拓斗だ。
「おはよ、蒼司! 起きてる?」
「……起きてるけど、朝なんだしもう少し静かに開けろって」
「ごめんごめん、ついテンション上がっちゃって」
  無邪気に笑う拓斗は、「ワクワクしています」というオーラが全身から滲み出ている。そんな姿を見てしまえば、拓斗が早朝から蒼司の元に訪ねてきた理由なんて一目瞭然だ。
「そんなことよりさ、ほら、雪だよ雪!」
「うん、結構降ったな。……庭に出るなら足元に気をつけろよ、危ないから」
「わかってるって」
  拓斗の言葉に相槌を打ちながら、蒼司は静かに窓を閉めた。さすがにこれ以上風に当たっていると、冗談抜きで風邪をひきそうだ。ついでに着の身着のままで飛び出していきかねない拓斗に、念押ししておくことも忘れない。
  すると不意に、拓斗の手が蒼司の手を掴んだ。突然の出来事に反応が遅れたせいで、蒼司の体はわずかによろめき、とん、と足が一歩前に出る。
「うわ、ちょっ、なに、」
「蒼司も行こうよ! な?」
「寒いから俺はいいよ」
「えー、蒼司と一緒のほうが絶対楽しいのに」
  眉尻を下げた拓斗にまじまじと見つめられ、蒼司は思わずたじろいだ。それは飼い主に置いていかれそうな犬のようで、あるはずのない耳としっぽがしゅんと深く項垂れている。ついでに言えば、元気よく雪遊びに誘ってくる辺りもそっくりだ。
  拓斗の誘いにまったく興味がないわけではない。だが寒い日は外に出るよりも室内で暖まっていたいという気持ちが、今の蒼司の中ではいくらか勝っていた。冬の澄んだ空気は嫌いではないし、雪も魅力的だ。そもそも積雪に対して非日常を感じ取ってしまうところが、温暖な気候の土地で育ったゆえの思考なのかもしれない。身近でないからこそ、直に触れたくなるのも理解はする。
  とはいえ雪というものは、少し離れた場所から景色を眺めているくらいがちょうどいいようにも思うのだ。なによりあの寒そうな中に、自分から飛び込んでいくのはそれなりに億劫だった。いざ外に出てしまえば楽しめるのかもしれないが、どうにもあと一歩が踏み出せない。蒼司が考えあぐねていると、いい加減痺れを切らしたらしい拓斗が、掴んだままの手にきゅっと力をこめた。
「なあ蒼司、ちょっとだけでいいからさ。一緒に行こ?」
「うーん。……まあ、ちょっとならいいか……」
「やった!」
  瞳いっぱいに期待を湛えた拓斗と相対しているうちに、気がつけば蒼司は頷いていた。たちまち満面の笑みを咲かせた拓斗に、蒼司もつられて頬が緩んでしまう。こうも嬉しそうにされると、「まあいいか」と思えてしまうのだから仕方がない。
  逸る気持ちを抑えきれない様子の拓斗が、行こ、と蒼司の手を軽く引いた。そんなに急いだって、すべての雪が瞬く間に解けだしていくわけないというのに。しかも今は雪で滑りやすくなっているのだから、転んで怪我でもしてしまうと一大事だ。
  外に出るにはお互いに薄着すぎるし、そもそも蒼司に至ってはまだ寝間着姿のままだった。蒼司は窘めるような声色で、「待って」と後ろから呼びかける。すると拓斗は素直に振り向いて、そのまま次の言葉を大人しく待っていた。それこそ、散歩中の犬のように。
「準備できたら行くから。拓斗もちゃんとあったかい格好してこいよ」
「あ、そっか。そうだな、うん。わかった」
  またあとで、と玄関先で合流する約束を交わして、部屋をあとにする拓斗の背を見送った。寒さに耐えかねたら戻ってくればいいか、なんて。きっとそんなことになりはしないのに、蒼司は身支度を整えながら心の中で独り言ちる。窓の外では小鳥たちがちゅん、と鳴き、仲良く飛び去っていった。
 
 

 
 
  冬の装いできちんと身を固めてから、ふたりは揃って菩提樹寮の庭へと降り立った。まっさらな雪に覆われた地面を踏みしめると、かき氷のてっぺんにスプーンを突き立てたときのような音がする。窓辺にいたときよりも近くに北風を感じて、蒼司は自ずと身を震わせた。
  これは外に出て初めて気がついたのだが、実際の積雪量は窓辺で感じたよりも多くはないらしい。それでも雪に対する物珍しさ自体は変わらなくて、ひとまずはたくさん積もっている地点まで行ってみることにした。
  さくさく、さく。雪の解ける音とともに、ふたりは不慣れな雪道を慎重に歩く。途中、なんとはなしに振り返ってみると、背後には二人分の足跡が伸びていた。ゆっくりと、けれども着実に進む道の先には、どんな景色が待っているのだろう。などと思ったところで、いつの間にか先を歩いていた拓斗に呼びかけられた。
「蒼司、こっちこっち!」
「うん、今行くから……っ、わぁ!?」
  瞬間、柔らかな雪塊が蒼司の背をめがけて落ちてきた。突如として降りかかる直接的な冷たさに、思わず肩を窄める。どうやら木の近くを通りがかった際に、雪の重みに耐えかねた枝葉が撓ったらしい。防寒着をしかと着込んでいたはずだが、細かな雪のかけらはその合間に入り込んできたのだ。
「……大丈夫?」
「大丈夫だけど、っ、冷た……」
  いつものことといえばそうかもしれないが、己の身に降りかかった些細な不運に、蒼司は思わずため息を洩らした。落ちてきた雪が少量だったのが、不幸中の幸いだ。それにしたって、冷たいものは冷たいのだけれど。
  蒼司は雪を振り払うと、気を取り直して拓斗の元へと向かった。庭のちょうど真ん中付近は雪も融けにくいのか、他の場所よりもいくらか深く積もっている。辺り一帯をひとまずの拠点に定めたところで、拓斗が雪を一掴みした。
「ちっちゃい雪だるまなら作れるかな?」
「うーん、多分?」
「よし、とりあえず作ってみよっと」
  言うが早いか、拓斗は両手でぎゅうぎゅうと雪玉を作り始めた。それからある程度の大きさになったところで、今度は片手ほどの雪塊を白い地面で転がす。すると周囲の雪を伴って、少しずつ大きくなっていった。
  拓斗の雪だるま作りを横目に、蒼司もまた雪に触れてみる。それは直に触れたときほどではないにせよ、手袋越しにもはっきりとわかるくらいにはひんやりとしていた。けれどもその冷たさも、今は不思議と心地よい。
  せっかくだから自分でも作ってみようと、手始めに蒼司も雪玉を拵えた。両手いっぱいの白をひとかたまりにして、ころころと雪の上を転がして。そうして綺麗な球体を目指し、雪塊を整えているうちに、いつしか雪融けの水がじんわりと手袋に滲み出していた。
  確かに手は悴んでいるはずなのに、あまり気にならないのはなぜだろう。滅多にない雪との戯れに心が浮かれているのか、よりよいものを作りたいという無自覚な対抗心のせいなのか、はたまたそのどちらもだろうか。
  なんだか幼い頃、拓斗と公園で泥だんご作りに勤しんだときみたいだ、と蒼司はふと思った。あのときはふたりして夢中になるあまり、日没後に帰宅して親にしこたま怒られたような記憶がある。呼び起こされる童心が、雪だるまをより一層大きく育てていった。――そして。
「……できた!」
  隣からそう聞こえてきたのは、心の声をまるごと口に出していたのではないかと錯覚してしまいそうになるくらいのタイミングだった。蒼司がそちらに目を向けると、「見て見て」と拓斗が得意げに鼻を鳴らす。
「うん。なかなかいいんじゃないか」
「だろ? 結構、自信作」
  枝葉でできた腕と口、それから木の実の双眸。にっこりとしたその表情は、どこか作り手に似た愛嬌を感じさせる。堂々と披露された拓斗の雪だるまを見て、蒼司は率直に頷いた。頭と体のバランスのせいか若干傾いているものの、それもまた個性だ。
  俺もできたよ、と言いながら、蒼司は自分が作った雪だるまに目を遣った。頭と体のバランスがいまひとつなのはこちらも同じで、今更ながら雪だるま作りの難しさを思い知る。これでも雪玉を重ねるまでは、程よい加減で作れていたはずなのだけれど。
「案外作るの難しいんだな、雪だるまって」
「はは、確かに」
「まあでも、よく見たらこれはこれで悪くない気もする」
  そう言って、蒼司はふっと頬を緩めた。雪だるまはほんの少し不格好ながらも、時が経つにつれて愛着すら湧いてくる。それはきっと自らの手で作ったからでもあり、なにより拓斗とともに雪遊びに興じたからでもあるに違いなかった。
 楽しいなあ、なんて言葉がふと隣から耳に届く。恐らくは独り言であろう感嘆に、蒼司はあえて返事をした。――俺も楽しかった、と。
  寒さの中に自ら飛び込む気はなかったのに、こんなにも雪遊びで夢中になれるとは思いもよらなかったのだ。拓斗の誘いに乗ってみてよかったと、今の蒼司ならば素直にそう思える。すると拓斗がわずかに目を見開いて、それから深く柔らかな笑みを浮かべた。
「また雪が降ったらさ、一緒に雪だるま作ろうよ」
「いいな。たくさん降ったら、今度は大きいのでも作る?」
「賛成!」
  元気よく手を挙げて笑う拓斗とともに、蒼司もまた笑みを深めた。仲睦まじく肩を寄せ合う雪だるまたちは、冬の穏やかな陽光を受けてきらきらときらめいている。やがて融けてしまうとわかっていても、そんな微笑ましい光景を見ていると、いつになく名残惜しいような気さえした。
  白い地面に足跡を付け、雪に触れて、夢中で遊んで。あまり体感したことのない冬ならではの楽しさも、なかなか悪くない。
「拓斗」
「ん?」
「誘ってくれてありがとう」
  蒼司がそう言うと、雪よりもずっと眩しい笑顔がすぐさま返ってくる。寒ささえも楽しさに作り変えるそのあたたかさに、いつもどこかで救われていると伝えたら、拓斗はなんと答えるだろう。なんて、今はまだ真正面から伝えられはしないけれど。
  寮の中に戻ったら、ひとまずホットココアを淹れようか。楽しいひとときのきっかけをくれた拓斗が、風邪などひいてしまわないように。こころなしか幸せそうな雪だるまたちを写真に収めて、蒼司は拓斗に声をかけた。