だからどうか気づかないで

惟←七

夢を見た。それもひどく鮮明で、悪い夢を。

  大好きな兄が笑っていた。誰が見ても整った顔立ちに浮かぶ笑みは、太陽よりも眩しくて、陽だまりよりもあたたかい。七瀬にとっての、世界で一番大切な人。そんな兄が夢に出てくるなんて、なんという幸せなのだろう。お兄ちゃんと呼びかけながら、七瀬はいつものように駆け寄った。それなのに、追いかけても追いかけても兄の元へと辿り着かない。どうして、待って、と心の中で繰り返しながら、なおも兄を追った。
  兄と自分との間には誰しもが立ち入ることのできない絆があって、だからこそ兄の傍はいつだって自分だけの場所であるはずなのに。遠くへなんて行かないで、ずっと近くにいてほしいのに。追えば追うほど離れていってしまうのは、一体全体どうしてなのか。柄にもなく必死に手を伸ばし、額に汗をかきながら走り続ける。縺れる脚には気にも留めず、前だけを見つめて。早くこちらに気づいて、よく通るあの声で優しく名前を呼んでほしかった。
(――お兄ちゃん)
  ようやく追いついた、と思った。けれど立ち止まった先で目の当たりにした光景に、七瀬は思わずたじろいだ。先ほどまでは見えなかったはずの人影が、兄の傍らにもうひとつ。どこの誰かもわからない他人と、見たことのない表情を浮かべた兄がそこにはいた。
  知らない、兄が誰かに対してそんなふうに笑いかけるなんて。晴れ空のように澄み渡り、それでいてほんの少しだけ面映ゆそうに花を綻ばせて。今まで見たことのない兄の笑顔に、七瀬はひどく焦燥感を抱いた。と同時に、兄の隣を陣取っている人間が何者なのか、本能的に理解してしまった。
「ああ、七瀬。――紹介する。この人は……」
  振り返った兄が、まっすぐこちらを見つめてくる。けれどもうまく息ができなくて、心臓はぺしゃんこに潰れたかのような激しい痛みを訴えていた。大切な人が繋いでくれた命の宿るこの身体が、至るところで悲鳴を上げている。
  嫌だ、やめてよ、僕だけを見て。心の深い場所からあふれてくるのは、無意識にせき止めていたはずの感情の波。どっと押し寄せてくるなり、たちまち足元からすべてを浚っていった。喉奥からは低い唸り声が洩れ、七瀬は懸命に耳を塞ぐ。なにも知らない、知りたくもない。兄の大切な人のことなんて。
  ――兄の言葉を聞きたくないと強く思ったのは、初めてのことだった。


  最悪。
  目が覚めて、まず初めに思ったのがそれだった。ぐっしょりと汗で濡れた肌に、衣服が張りついて気持ち悪い。未だ早鐘を打つ心臓を抑え込むように、七瀬はそっと胸元に手を当てた。大きく息を吸って吐いて、それからまた吸って。一刻も早く記憶から消し去ってしまいたくて、深く息を吐き出した。
  なんてひどい夢なのだろう。よりにもよって、開けてはならないパンドラの箱を自らの手で抉じ開けるような真似をしてしまうなんて。「夢は無意識の領域」とはよく言ったものだが、心の内側にこんなにも余計な感情が眠っているとは思いもよらなかった。だってそうだろう。いくら七瀬が惟世に心を傾けたとて、惟世にとっての七瀬は「弟」以外の何者にもなれないのだから。
  惟世が好きだ。世界で一番かっこよくて、誰よりも輝いていて、尊敬できる偉大な兄。今にも吹き飛んでしまいそうだった幼き七瀬に救いの手を差し伸べ、命を分け与えてくれた神様。何物にも代えがたい、唯一無二の大切な人。ごく一般的な兄弟というものがどんな関係なのかはわからないけれど、少なくとも七瀬は惟世に対して「普通の」兄弟以上の思いを抱いているであろうと、薄々自覚はしていた。――けれど。
  夢の世界で出会った惟世と、その傍らにいた見知らぬ誰かを認識した途端に頭が、心が、全身がかっと燃えるように疼いた。惟世の隣は自分だけの居場所だと思っていたのに、他人に取られてしまったと瞬間的に感じたのだ。加えて、長らく目を逸らし続けていた未来の可能性についても直面させられてしまった。――もしも将来、兄が生涯の伴侶を見つけたならば、そのときの自分はどうするのだろう。
  宇賀神惟世という人は、贔屓目抜きでも性格が良く、おまけに顔立ちも整っている。情に厚くて面倒見がよく、困っている人間を見かけると放ってはおけない。つまるところ、老若男女問わず恐ろしくモテるのだ。それでも惟世自身が向けられる恋情に疎いことが、今のところ七瀬にとって不幸中の幸いである。だとしても、もし惟世を慕う誰かの視線に気がついたら? 誰かを愛してしまったら? 考えれば考えるほど、胃がキリキリと音を立てた。
  いくら惟世が大切に思ってくれているといえども、所詮「弟」は「弟」でしかない。惟世の弟であることは七瀬の誇りであり、この身に流れる血が、腹の奥で動いている腎臓がなによりの証だ。「もしも兄弟ではなかったら」なんて微塵も考えたことがないくらい、兄との繋がりは七瀬のすべてであった。それなのに足元が揺らぎそうになっているのは、ひとえにただの「弟」では惟世の伴侶になれはしないから。自分では立てない場所に立つかもしれない「誰か」に思いを馳せただけで、こんなにも心がざわめく。もはや言い逃れができないほど、兄を慕う数多のうちのひとりに成り果てているのだと自覚してしまった。
  歪んだ独占欲と、どうしようもなく自分勝手な焦燥。こんな気持ちを抱くのは、生まれて初めてだった。無意識に唇を強く噛みしめたせいか、口内にほのかな鉄の味が広がる。惟世の身体に流れる血も、同じような味がするのだろうか。確かめる術なんてないけれど。
  閉じた窓の隙間から、淡い光が洩れている。ひと思いに開け放つと朝陽がいっぱいに射し込んできて、七瀬は思わず目を眇めた。自分には無関係だと決めつけていた感情が、こんなにも近くに――それも大きく育ってしまっていたなんて知らなかった。それも、一番向けてはならない人に対して向かっていたなんて。気づいてはいけない、触れてはいけないと抑圧すればするほど強く募った想いは、認識した途端に弾けてこの身に重くのしかかる。
  こんな気持ち、一刻も早く捨て去るべきだ。惟世にすべてを悟られてしまう前に。さもなくば、今度こそ嫌われてしまうかもしれない。それだけは、なんとしても避けなければならなかった。
  惟世に嫌われるくらいなら、恋情なんていらない。たとえ生涯この身を焦がし続けることになったとしても、神様の弟であり続けるためには仕方がないのだ。神様に愛されたい、だなんて烏滸がましい。今だって手を伸ばせば届く距離にいるのに、誰よりも大切に思ってくれているのに、その「特別」ですらまだ足りないというのだろうか。
  七瀬は静かにベッドから降りると、そのまま自室をあとにする。自覚して間もない恋情はたちまち雁字搦めにして、心の奥底へと厳重にしまい込んだ。どうか愚かしく醜いこの感情に気がつかないでいて、と祈りながら。リビングの手前で出会った兄は、今日も変わらず太陽のような笑みを浮かべていた。

「おはよう、お兄ちゃん」



  潮の香る海沿いの公園は、休日というのもあいまって人も多く賑やかだ。雲ひとつない快晴、絶好の路上ライブ日和。青空の下で奏でるハーモニーは、それなりに上々の成果を見せた。
  黙々とヴァイオリンを片づけながら、七瀬は静かに息をついた。惟世への恋情を自覚してから数日が経つが、今のところは普段とさして変わらぬように接せられている、とは思う。元より兄が好きで、できることならば極力一緒にいたいと思うほどだ。「好き」の意味が新たにひとつ増えてしまっただけだとなるべく自分に言い聞かせながら過ごすうち、段々と平常心を取り戻せているような気さえしていた。このまま順調にいけば、以前とそう変わらない自分に戻る日も近いかもしれない。今日はこのまま横浜に宿泊する予定なので、練習後には惟世と出かけられたら嬉しい、なんて算段を頭の中で立ててみる。すると不意に惟世が誰かに呼び止められているのが目に留まり、七瀬は思わず息を潜めた。
  可愛らしい人だった。小柄で髪の長い、いかにも柔らかそうな雰囲気を纏っている。恐らくは惟世のファンなのだろう、兄もにこやかに言葉を交わしているのが見えた。いつもの七瀬なら、きっとすぐさま止めに入っていただろう。「お兄ちゃん」と呼びかけて、「訊きたいことがあるんだけど、いい?」なんてわざとらしく間に割って入って。けれどもなんとなく躊躇われて、七瀬はその場に留まったまま、ただ惟世たちの様子を見つめていた。
  お友達から始めませんか、なんて言葉もよく聞くけれど、こういう何気ない会話から関係が始まったりするのだろうか。そんなありもしない、けれども必ずしもないとも言い切れない想像がぐるぐると頭を過る。どうせ諦めなければいけない立場なのだ。深く考えすぎるのはいい加減やめたいと思うのに、要らぬ思考がひっきりなしに駆け巡って離れてくれない。いけない、と七瀬が内心で自省したそのとき、頭上から聞き慣れた声が降ってきた。
「……お兄ちゃん」
「どうした? ぼーっとして」
「え? ううん、そんなことないと思うけど」
「そうか? それならまあ……いいんだが」
  どこか腑に落ちない様子の惟世に、首を傾げる。勘のいい兄のことだ、もしかすると七瀬のわずかな心情の変化を見抜いてしまったのかもしれない。ほんの少し身構えながらも、七瀬はにこりと笑みを浮かべた。
「いや……最近の七瀬、なんか疲れてそうに見えるっていうか……。気のせいか?」
「……気のせいじゃない? それよりも、このあと一緒に出かけたいな。僕、楽器店に行きたいんだけど、お兄ちゃんにも相談に乗ってほしくて……」
「ん? ああ、いいぞ」
「やった」
  甘えるように上目遣いで見つめると、惟世はよしよし、と七瀬の頭を優しく撫でてくれた。その手つきの心地よさに、七瀬はなんだか泣き出したいような思いでいっぱいになる。それでも精いっぱいの喜びを表情に乗せ、すっと目を細めた。
  これでいい。兄が大好きな弟の姿でいるのが、きっと正解なのだ。惟世と過ごす時間はなによりも幸せで喜ばしいはずなのに、どうしてこんなにも胸が押し潰されそうなのだろう。――果たして、どこで間違えてしまったのだろう。ずきずきと音を立てる心の奥底から必死で目を逸らしながら、「お兄ちゃん」と七瀬は惟世に呼びかけた。



  間借りした菩提樹寮の一室で、七瀬はひとりため息をついた。夜も更け、いい加減に眠ったほうが良い時間に差しかかっているのは理解している。けれどもなかなか寝つけずに、ベッドに横たわったままの体勢でスマートフォンを操作していた。とはいえ、適当にSNSを眺めていたところで大して面白いわけでもなく、その内容すらてんで頭に入ってこない。やがて文字の羅列を追うことにすら飽きてしまい、七瀬はスマートフォンを傍らに置いた。
  好きってなんだろう。恋ってなんだろう。以前、少しだけ考える機会はあったけれど、あのときはまだ自分とは縁遠いものだとなんとはなしに思っていた。正直なところ、今でもよくわかってはいない。なにをもって好意を恋情と認識したのか、自分でもうまく言い表せなかった。ただひとつわかるのは、家族へ向ける愛とはまた違った感情が心の中にあるということだけだ。
  惟世が笑っていたら嬉しいし、つらそうにしていたら悲しい。叶うならばずっと傍にいたくて、誰かの隣で楽しそうにしていたらつまらない気持ちになる。いつかできるかもしれない彼の恋人のことを想像するだけで胸が軋んで、見知らぬ誰か相手にひどく嫉妬した。惟世の恋愛対象にはなり得ないと理解していても、諦めようと決意していても、欲深い心は常に兄を追いかけている。兄としてではなくひとりの人間として、こんなにも執着しているのに、どうして恋情を抱いていないと言い切れようか。――叶えてはならない恋と、頭ではわかっているけれど。
  お兄ちゃん、と独り言ちた声は、静寂に包まれた部屋にはいやに大きく響く。むりやりにでも寝ようと心に決めて、七瀬はぐ、と壁際に向くよう寝返りを打った。刹那、こんこん、と遠慮がちなノック音が耳に届く。こんな夜更けに訪ねてくるなんて、誰がなんの用向きなのだろうか。寝ているふりをして無視してもよかったけれど、万が一訪ねてきた人が惟世であれば追い返すのも忍びない。七瀬はベッドからのろのろと起き上がり、部屋の扉を開いた。
「すまん、夜遅くに。……寝てたか?」
「ううん、起きてたから大丈夫だよ」
「そっか、よかった」
  目尻をつり上げて安堵を滲ませた惟世に、七瀬の心臓がとく、とスタッカートを刻んだ。見慣れた表情のはずなのに、どうしたわけか胸の奥がさわさわと落ち着かない。けれどもそこに不快感はなく、むしろ意識すればするほどに胸の鼓動が高まっていくようだった。
  世界一かっこよくて優しい、自慢の兄。それなのに「お兄ちゃんってこんなにもかっこよかったっけ」なんて至極当たり前の感想を抱いてしまうほどには、どうかしているのかもしれない。それでもなんとか胸のざわめきを抑えつけて、七瀬は微笑んだ。
「で、どうしたの? 僕になにか用だった?」
「あー、いや……な」
  大抵のことははっきりと口にする惟世にしては珍しく、妙に歯切れが悪い。七瀬は首を捻りながらも、言葉を選んでいるらしい惟世を静かに待った。
「あのさ、七瀬。……気を悪くしたら悪いんだが、やっぱ最近なんかあったか?」
「……どうしてそう思うの?」
「ここ何日か考え込んでるっぽいっていうか、なんていうか……。うーん、……まあ正直、半分くらいはカンなんだが……」
  七瀬は思わず目を見開いて、息を呑んだ。やはり兄には敵わない。すべてを隠し通せるほど、甘くはないということなのか。それでも、この想いだけは告げるわけにはいかない。告げたが最後、惟世に宥められるか引かれるか――最悪、嫌われてしまうか。どちらにせよ困らせるのはほぼ確実で、いいことなんてひとつもないだろう。兄に嘘はつきたくないけれど、こればかりは仕方がないのだ。
「もう、お兄ちゃんてば心配性なんだから。……僕なら大丈夫、なんでもないから」
「けど、」
「ほら、そろそろいい時間だし寝なきゃね。お兄ちゃんも、」
「七瀬」
  ぐ、と肩をしかと掴まれて、惟世と視線が絡む。どこまでも意志の強い瞳に射止められ、七瀬はひゅっと息を呑んだ。
「なあ、七瀬。……お前の悩みは、俺には言えないことなのか?」
「っ……」
「まあ、そうだよな。……ちょっと淋しい気持ちもあるが、七瀬ももう中三だからな。兄ちゃんには言いたくないことのひとつやふたつ、あってもおかしくはないか」
「……」
「七瀬が言いたくないなら、無理には聞かない。けど、七瀬がどうしても苦しいっていうんなら……そんときはちゃんと受け止めてやるから」
  ぽん、と優しく七瀬の頭を撫でてから、やがて惟世はドアノブへと手をかけた。これでいい、これは惟世にこそ打ち明けられない悩みなのだから。そうは思うのに、気がつけば七瀬の手は咄嗟に惟世の衣服の裾を掴んでいた。
「……七瀬?」
  思いがけず引き留めてしまったせいで、惟世はどこか怪訝そうに首を傾げている。なにか言わなくてはと思いながらも、今の七瀬にはなにひとつ言葉が思い浮かばなかった。ただ兄のほうへと伸ばした手だけが、所在なく宙を彷徨っている。
  七瀬がなにも言えずにいると、不意に身体が心地よいぬくもりに包まれた。あたたかな体温と安心する香り。大丈夫、と言わんばかりの優しい抱擁に、七瀬は堪らなく涙があふれそうになった。惟世はなにも訊かず、心を落ち着かせるようにとんとんと背を撫でてくれる。全身が惟世に包み込まれたおかげか、ぐちゃぐちゃと綯い交ぜになった心も少しずつ柔らかく解けていくようだった。
  優しい優しいお兄ちゃん。家族として、弟として、誰よりも大切に扱ってくれるお兄ちゃん。この上ない幸せを感じているのに、どうしようもなく息が苦しくて仕方ない。七瀬はそっと惟世の背に腕を回し、抱きしめ返す。そのまま顔を押しつけるとよりいっそう兄の香りが鼻腔を擽って、ほんの少しだけ目元を濡らした。
  一刻も早く呼吸の仕方を思い出すから、余計な感情なんて捨て去ってしまうから。――だから完璧な弟に戻れるまで、どうか気づかないでいて。