放課後、半兵衛はひとりで部室へと向かっていた。普段は腐れ縁の官兵衛と共に行くことが多いのだが、この日は隣にいなかった。どうやら他に予定があるらしく、部活には出られないのだそうだ。
廊下の窓からは、強い風に揺さぶられる木々が見えた。びゅうびゅうと吹き付ける風は、校庭に植えられた木を撓らせている。窓は閉じられているというのに、風の音は半兵衛の耳にまで届いた。
(これは、天気が荒れるだろうな)
雨こそ降っていないが、曇り空の外はいつものこの時間帯よりも幾分暗い。念のため傘を持ってきておいてよかったと、半兵衛は心の中で呟いた。
「和食研究部」と書かれた紙が貼られている教室の前で、半兵衛は立ち止まった。入学して数か月、随分とこの教室も見慣れたものだ。そんなことを思いながら、半兵衛は部室の扉に手を掛ける。そのまま手を引くと、がらがらと音を立てて扉は開かれた。
目の前に飛びこんできたのは、照明もつけられていない、真っ暗な部室だった。念のため教室をざっと見回すが、そこには誰もいない。
(ああ、今日は誰も来ていないのか)
元よりこの部は、部員数が少ないのだ。偶々予定が合わず、誰も来ていないということもあり得ない話ではない。誰も来ていないのならば、わざわざここに留まっている必要性もない。半兵衛はそのまま身体を翻し、部室を立ち去ろうとした。
「……っ、……」
押し殺されたようなか細い声が、半兵衛の耳に入ってくる。聞き間違いではないだろうかとよく耳をそばだてると、それは確かに嗚咽混じりの声だった。この位置からははっきりと見えないが、恐らく中に誰かいるのだろう。放っておくこともできるはずなのに、どうにも気にかかり、半兵衛はその声の主を探すことにした。
静まり返った教室に、半兵衛の足音が響く。この教室は防音仕様になっているせいか、いやに静かで仕方がない。辺りを見回しながら歩いていると、半兵衛は部室の片隅で膝を抱えながら涙を流す人を見つけた。
「……ねえ、何泣いてるの、先輩」
ゆっくりと近づき、足を止める。自らの足元で泣くその人――部長である信行を見下ろしながら、半兵衛は声を発した。ここまで近づいたというのに、この人は気が付いていなかったのだろうか。半兵衛の声にびくりと身体を反応させた信行が、半兵衛のほうを静かに見上げた。
「っ、お前……いつから」
それまで泣いていたことを、半兵衛に悟られまいとしているのだろうか。涙に濡れる目をごしごしと拭いながら、信行は答える。そんなに擦ると後で腫れるだろうな、とぼんやり思いながら、半兵衛はもう一度口を開いた。
「ねえ、なんで泣いていたの」
「……お前には、関係ないだろう」
そう言った信行の声は震えていた。それは先程までの涙のせいなのか、それとも他の何かのせいなのか。半兵衛にははっきりとした理由が推し量れなかったが、心の奥に妙な苛立ちを覚えた。
どうしてこの人はひとりきりで泣いていたのか、それを教えてほしかった。庶民生活を知らず、所詮は兄にも勝てないような人だと、心の中で軽んじていたはずの信行に対してこのような感情を抱くなど、自分でも信じられない。なのに、どうしてそのように考えてしまうのだろうか。理由など知りたくもないが、今はただひたすらに苦しかった。
半兵衛はその場に屈み、後ろからそっと信行を抱き締める。自分よりも年上で、背も幾分高いはずなのに、自らの腕の中に大人しく収まっている信行がやけに小さく感じられた。
「……馬鹿じゃないの、あなたは」
「何を言って……」
「なんでひとりで泣いてるの。こんな暗い教室で」
「…………」
信行は前を向いたまま、答えようとしなかった。静かすぎるこの教室に、再びの沈黙が流れる。重く流れる時間の中、半兵衛は再び口を開こうとした。だが、その声を遮るようにして信行は半兵衛のほうへと顔を向け、声を発した。
「心配してくれてありがとう、半兵衛くん」
柔らかく微笑むその顔を見て、半兵衛ははっとした。突き動かされるように身体を信行から離し、部室の扉の前へと向かう。背中にはずっと信行の視線を感じていた。
「っ、……ずるいよ、先輩は」
俯いたまま半兵衛は言い放つと、足早に部室を後にした。
半兵衛は昇降口へと続く廊下を走った。天気が悪いせいか、人は誰もいない。今の顔を誰かに見られなくて済むのは、きっと不幸中の幸いだ。
さっきの笑顔が頭から離れない。顔が熱くて仕方がない。胸で響く心音がうるさく身体を駆け巡る。
聞こえないふりをしたかったのに、できなかった。