桜の季節

遊←ガク/モブから学人くんへの片想い描写有

後悔先に立たずとはよく言うけれど、まさしく今がそうなのだろう。あのとききちんと伝えていればよかった、なんて。存在したかもわからないいくつもの「あのとき」を、意味もなく振り返る。そんなことをしたところで過去には戻れやしないし、たとえ戻ったとしてもきっと言えないだろうに。
  桜舞う季節、別れと出会いの季節。卒業証書を片手に、今この場所にいないひとを想う。

  三月某日、ゴーハ市。
  この日、ゴーハ第七小学校では卒業証書授与式が盛大に執り行われた。卒業生代表を務めたのは、元・生徒会長である蒼月学人。成績優秀で品行方正、生徒からも教師からも信頼の厚い彼を差し置いて他にはいないだろう。
  何事もなく卒業式を終えた今、学人は校舎の裏手にいた。胸に花を携え、その手には卒業証書の入ったケースを手にしている。友人たちの元へと向かう前に、なんとなくひとりになりたい気分であったからだ。
  天気は快晴。澄み渡った空は雲ひとつなく、まるで巣から飛び立つ雛鳥たちを見守ってくれているかのようだった。うっすらと浮かぶ白昼の月だけが、青空の中で密やかに佇んでいる。
「――生徒会長!」
  ふと声が聞こえ、学人は振り返った。反射的に反応したあとになって、自分はもう生徒会長ではないのに、と内心でそっと笑う。それでも周囲には他に人がいないことから、やはり自分宛ての呼びかけで間違いでないのだと悟った。
  話しかけてきたのは、見たことのある女生徒だ。記憶が正しければ、確か隣のクラスの。その証拠に、彼女は学人と同様の花を胸元に咲かせている。
「生徒会ちょ……ええと、蒼月くん。その……」
「はい。……いかがしましたか?」
  わずかに言いよどむ彼女を、学人は急かすでもなく静かに待った。ほんのりと頬を赤らめながら、彼女は一度目を逸らし、それからもう一度こちらを見遣る。ふんわり吹き抜ける風が少女の長い髪を揺らして、うつくしく靡いていた。
「……ごめんね。困らせてしまうかもしれないって思ったんだけど、最後だからどうしても……伝えておきたくて」
  前置きした彼女の瞳の奥には、確固たる意志が灯っている。それから胸の前で手のひらをそっと結んで、彼女は言葉を続けた。
「私、ずっと蒼月くんのことが好きでした」
  ひゅっと息を呑む。純粋に、彼女がすごいと思った。こうしてまっすぐに想い人を見据え、心の内を告白できる彼女が。その勇気が、なによりも学人の心を揺さぶった。今から彼女を振ろうとしている身であるはずなのに、おかしな話かもしれないのだけれども。
  彼女の想いには応えられない。学人の心には、既にたったひとりの少年が大きく存在しているから。それでも心を尽くして丁寧に返答するのが、彼女に対するせめてもの礼儀だと思った。学人は眉尻を下げ、柔らかく微笑む。
「……お気持ちは、とても嬉しかったです。けれど……、……すみません」
「ううん。……ううん、いいの。……ちゃんと告白して、振られたら諦めもつくかと思って。私ね、もうすぐ引っ越すんだ。だからその前に……ってね」
  眦にうっすらと涙を湛えながらも、彼女は精いっぱいの笑みを作る。その表情がなんとなく眩しく見えて、学人はわずかに目を眇めた。
「……あなたは、すごいですね。こうして勇気を出して、私に伝えてくれたのですから」
  それに引き替え、私は……と言葉にならない想いを心の中で独りごちる。結局のところ、自分には一歩が踏み出せなかったのだ。せっかく築き上げた関係を壊すのが怖くて、嫌われたときのことを考えると胸が引き裂かれそうで。ずるずると先延ばしにした結果、遂にはこうして想いを伝えることさえ叶わなくなってしまった。
  いっそ「想いを伝えない」という選択肢に振り切ってしまえば、ここまでの未練に苛まれることもなかったのだろうか。今更考えたところで、詮無いことだ。
「……遠くへ越しても、どうかお元気でいてくださいね」
「うん、ありがとう。……蒼月くんも、元気でね」
  じゃあね、と手を振って去っていく少女を、学人はその場でただ静かに見送った。やがて彼女の背が完全に見えなくなったところで、ふ、と息をついて空を見遣る。――まるくて淡い、真昼の月。途端に音を立てる心臓に苦しさを覚えて、学人はそっと胸元を握りしめた。
  いとしい、いとしい想い人。今は遠く空の先、見果てぬ彼方へと飛び立ったかの少年。想いを伝えるタイミングを逃したまま、彼は今もなお帰らない。彼のことだ、きっといつの日かは帰ってくるのだと信じている。いつものように朗らかな、人好きのする笑みを湛えて。それでも彼を想うたび、日増しに痛む胸がしくしくと悲鳴を上げるのだ。
  くるしい、せつない、こいしい。吐き出すことさえできない感情の波が、心をひどく圧迫している。渦巻く想いの奔流と後悔の念に押し潰されそうで、学人は人知れず奥歯を噛みしめた。
  桜舞う季節。別れと出会いの季節。きみのいない季節。眼前に広がるのは青い空と白い月、それから風に踊る淡桃の花弁たちだ。こんなにもうつくしい光景なのに、隣にはきみだけがいない。――たとえきみがいたとしても、この胸の奥に秘めた想いを真正面から伝えられていたかはわからないけれども。
  ああでも、今ならばきっと言えるはずだ。高く遠い宇宙の彼方、手の届かないずっと先。学人は淡くひかる白い月へと手を伸ばし、目を細める。
「――私はあなたを愛しています。……恋しいと、どうしようもなく思ってしまうのです。きみを愛しく思う私を、どうか許してはくれますか?」
  遊我くん、と唇だけで呟いた音のない調べは、すぐさま宙に融けて消えて。ただあまく震える声だけが、ひとりきりの校舎裏で切なげに響いた。

  満開の桜の下。行き場のない想いを胸に、今日この学び舎を巣立っていく。