――声が聞こえる。ボクの名を呼ぶ、穏やかな声が。けれども意識の大半は、既に微睡みの中へと足を踏み入れたところだった。
かすかな衣擦れの音、背に感じるぬくもり。風邪を引いてしまいますよ、という言葉とともにかけられたのは、果たしてなんだったのだろう。どこか安心する匂いがふわりと鼻腔を擽って、よりいっそう眠りへと誘われていく。まるできみに抱きしめられているかのような、なんて。心の奥で無意識に芽生えた願望が、ほんの少しだけ顔を覗かせた。
夢現の間を揺蕩う最中、ただ彼の優しさに触れたことだけを知る。もしも夢で会えたなら、もう少しだけ傍にいさせて。
◇
安穏な微睡みから、ゆっくりと時間をかけてようやく意識が浮上する。瞼を開けば、そこはいつものロード研究所だ。どうやら机に突っ伏したまま、いつの間にやら寝落ちしていたらしい。
恐らくは変な体勢で眠っていたせいだろうが、どうにも身体の節々が痛んだ。大きな欠伸をひとつして、遊我はぐ、とその場で身体を伸ばす。すると不意に、布が床に落ちるような音が耳に届いた。見れば、そこには見慣れた水色の学生服が落ちている。しまった、とそのときになってようやく、遊我は客人の存在を思い出した。
というのも、今日は学生服の持ち主こと学人が研究所へと遊びに来ていたのだ。ロードの製作に勤しむ遊我の姿を興味深そうに見つめる学人に対してふと「退屈じゃない？」と尋ねると、「そんなことはありませんよ」と笑顔で返されたのもまだ記憶に新しい。その上ラッシュデュエルも何戦かして、穏やかで充実した休日を学人とともに過ごしたのだった。
それなのに、どうして途中で寝落ちなんてしてしまったというのか。確かに昨夜少し――いや、かなりデッキ調整に熱中してしまい、気がつけば空はうっすらと白み始めていたのだけれど。だとしても、せめて学人が帰るまでは起きていられたらよかったのにと、遊我はひとり自省した。
窓の外は既にとっぷり日が暮れており、その代わりにまるい月が姿を現している。さすがにもう帰ってしまっただろうか、と遊我は研究所内を見渡した。だが予想を反し、すんなりと彼の姿を視界の端に捉える。
学生服を持ったまま研究所の片隅に設えたソファへと向かうと、そこに学人はいた。だが後ろから呼びかけたところで、一向に返事がない。不思議に思った遊我が正面に回ると、代わりに聞こえてきたのは健やかな寝息だ。どうやら学人もまた、ソファでうたた寝をしているらしい。
（……学人の寝顔、初めて見たかも）
門限は大丈夫だろうかと案じる気持ちと、遊我が目覚めるまで待っていてくれようとしたことへの嬉しさ。ふたつの感情を抱えたまま、遊我はそっと学人の隣へと腰を下ろした。
深い蒼の瞳は裏側に姿を隠して、瞼を縁取る長い睫毛は時折かすかに揺れる。ともすれば冷たさを感じられかねないほど整った顔立ちの彼も、その寝顔は存外あどけなくて新鮮だ。不躾だとは思いながら、それでもなお静かに眠る学人から無性に目が離せない。もう少しだけ、と心の中で言い訳を積み重ねながら、遊我は学人に身体を寄せた。
そして今度は肩と肩とが触れ合うくらいの距離で、綺麗な寝顔をまじまじと見つめる。すると眠る寸前に嗅いだような気のする匂いが、遊我の鼻をほのかに掠めた。と同時に、遊我はあのふわふわとした安堵感が学人からもたらされたものだと改めて理解する。
彼のことだ、なにか香料を身にまとわせているとも思えないのに、どうにも忘れがたいのはなぜだろうか。決して不快などではなく、むしろずっと包まれていたくなるような匂いだ。
重力に従って、学人の前髪がはたと頬に落ちる。よく考えれば、こんなにも誰かに近づいたのは家族以外では初めてだった。途端にその距離感を強く意識して、遊我は慌てて適切な近さへと正す。それから学人、となんとなく独りごちると、それまで規則正しい寝息を立てていたはずの彼がむにゃむにゃと口を小さく動かした。
「ゆうがくん……」
不意に名を呼ばれ、思わず心臓がスタッカートのリズムを刻む。悪いことをしているわけではないというのに、なんとなく心がそわそわと落ち着かなくて、居心地が悪いような気持ちになった。息を吸って吐いて、また吸って。遊我が密かに呼吸を整えていると、今度こそ長い睫毛がゆっくりと持ち上がっていく。
「ん……ゆうがくん……？」
「おはよ、学人」
内心の動揺を取り繕って、遊我はにこりと笑いかけた。ほんの少しだけ声が裏返ってしまったような気もするが、起き抜けの学人には悟られなかったらしい。どこかまだぼんやりとしている学人の姿もまた、珍しいけれど可愛らしい。などと思ったところで、年上の少年に対して抱く感情として相応しいのか否か、遊我はいささか不安になった。
「あれ、私……いつの間に……」
「ボクを待ってる間に、かな。……ごめんね、せっかく遊びに来てくれてたのに寝落ちしちゃった」
ありがとうと礼を言いながら、遊我は少し前まで肩にぬくもりをくれていた学生服を学人に返した。学人はそれを受け取ると、そのまま自らの腕を袖に通す。するとなぜか一瞬だけ固まって、もごもごと口の中で小さく呟いた。
「……遊我くんの、……が……ます……」
「？ 学人？」
「な、なんでもないですよ……！」
心なしか頬の朱い学人が、大げさなほどになにかを否定している。突然慌てふためく学人に首を傾げながらも、遊我はすぐにまあいいかと受け流した。そして先ほど空けたはずの距離を再び埋めるように、学人に身を寄せる。
「ねえ、学人。……もう少しだけ、こうしていていい？」
指先と指先が触れ、たちまち目が合った。未だ名前のない感情が、離れがたいと言っては彼の足を引き止めんとしている。ほんの一瞬、逡巡した学人が頷いたのを見て、遊我はまた目を細めて笑った。
きみの隣にいると、なんとなく落ち着くのはどうしてだろう。きみの匂いを心地よく感じるのはなぜだろう。――答えはきっと、すぐ傍に。
