無自覚レイニーデイ

三上蒼司は、今日もついていない。

  唐突に天から注いだ雫がぽつ、と蒼司の頬を濡らした。足を止めて空を見上げながら「雨か」と独り言ちた声には、特に感慨もない。それが蒼司にとって、あまりにも日常茶飯事のできごとだったからだ。
  持ち前の不幸体質ゆえか、蒼司は妙に雨に降られやすい。雨予報だからと傘を持っていった日に限って晴天が広がり、逆に晴れ予報だからと傘を持たずに出歩けばゲリラ豪雨に遭遇してしまうことがしばしばあった。そういった意味で、蒼司はあまり天気予報をあてにしていない。今日だって天気予報によると一日中晴れが続くらしく、降雨の予想などまるでなかったはずだ。
  別に蒼司とてまったくの無策というわけではなく、いつ雨に降られてもいいように基本的には折り畳み傘を鞄の中へと忍ばせている。ただ今日はたまたま、壊れた傘の代わりに新しいものを買い直そうと思い、持ち歩いていなかっただけで。
  別段慣れるようなことでもないが、既に慣れてしまったものは仕方がない。どうせ行先は拓斗の家なのだから、このまま濡れていったとしてもタオルくらいならば貸してくれるだろう。遊びに誘われたのが拓斗でよかったなと思いながら、蒼司は傘も差さずに目的地まで走っていった。

  拓斗の家に着いた頃には、さすがにずぶ濡れだった。
  駆け足で軒先に入り、水分を孕んだシャツの裾を軽く絞る。ぽたぽたと垂れる雫は重力に従って地面へと落ち、そのまま吸い込まれていった。いくら慣れているからとはいえ、風が吹くたびに身体の冷えを感じるのは致し方ないだろう。それに張りついたシャツや髪が気持ち悪くて、早く拭いてしまいたい気持ちが高まった。やはり拓斗にタオルを貸してもらおう。そう心に決め、蒼司は玄関のベルを鳴らす。程なくして、戸の向こうから拓斗が顔を出した。
「蒼司、いらっしゃいー……って、え!?」
  蒼司と目を合わせたかと思うと、拓斗は翠の瞳をまんまるに見開かせた。どことなく頬が赤いような気がしたのは、光の当たり加減のせいだろうか。
「たく、」
「ちょっと待ってて!」
「えっ……」
  言うが早いか、拓斗はどこか慌てた様子で家の中へと舞い戻っていく。玄関先にひとり取り残された蒼司は訳もわからないまま、とりあえず三和土に上がり込んだ。
  少し寒いなと思いながら、蒼司は素直に拓斗の戻りを待つ。冷え切った腕を手のひらで擦っていると、不意にくしゅ、と小さなくしゃみが出た。やがてふかふかのタオルを何枚か手にした拓斗が、蒼司の元へと戻ってくる。あいかわらずどこか急いた様子の拓斗に、なんとなく笑みを浮かべた。
「蒼司、これ使って!」
「ああ、うん。ありがと……」
  冷えた身体を包み込む、柔らかな感触。タオルの一枚を肩口から背にかけられ、更にもう一枚を手渡される。あたたかい。ほのかな柔軟剤に混じる拓斗の家の香りに包まれて、蒼司は思わず息をついた。
「助かった。タオル、ありがとう」
「いや……、それはいいんだけど。……また雨に降られたんだ?」
「まあそんなとこ。……こういう時に限って、折り畳み傘持ってないんだよな」
  はは、と蒼司は乾いた笑いをこぼす。まったく、どうしてこんなにもついていないのだろうか。なにも傘が壊れているときに限って降らなくてもいいのにと、こう何度も続けばさすがに空に向かって愚痴りたい気持ちにもなる。すると拓斗がわずかに逡巡したのち、そろりと口を開いた。
「なあ、蒼司。その……よかったら風呂、使ってよ」
「え、でもいいのか?  俺、着替えとかないし」
「だってほら、風邪引いちゃいけないしさ!  着替えは……ええと、乾くまでは俺のシャツ着てたらいいと思う!  いいから、風呂! 風呂行こ、な?」
「まあ……拓斗がいいなら、そりゃあ借りたいけど……」
  家に上がるや否や、拓斗に半ば押されるようにして蒼司は脱衣所へと押し込められる。実際、風邪を引くくらいならば素直に風呂を借りたほうがよっぽどいいため、拓斗からの申し出は願ってもないことだった。着替えまで貸してくれるのならば、なおさら断る理由がない。拓斗の強引さにどこか多少引っ掛かりはすれど、すぐに「まあいいか」と蒼司は頭の中で結論づけた。
  ほどなくして、新しいタオルとともに着替えが押しつけられる。そして拓斗は、足早に脱衣所をあとにした。自分よりも大きなシャツとハーフパンツは、蒼司も見かけたことのある拓斗の部屋着だ。さすがに下着は借りるわけにいかなかったので、乾くまではハーフパンツだけで凌ぐしかない。それでもずぶ濡れの衣服を着続けるより、幾分ましだ。濡れた服は洗濯機に入れておいて、という拓斗の言葉に従い、蒼司は空っぽの洗濯機に衣服を突っ込んだ。
  それにしても、やはり今日の拓斗はなんとなくおかしいような気がする。蒼司はわずかに首を捻ったものの、結局は冷え切ったこの身体を早く温めたい気持ちが勝った。幼い頃は時々泊まりに来ていたこともあり、拓斗の家の風呂場に入るのは初めてというわけではない。なんとなく懐かしくて、自然と頬が緩む。
  せっかくの好意を無駄にするのもよくないと、蒼司はどこか浮足立った気分で風呂場に入った。シャワーヘッドから降り注ぐあたたかな雫の心地よさに、心までほのかな熱が燈っていく。あとで改めてお礼を言わなければと思いながら、蒼司はしばしの間、そうしてのんびりと身体を温めていた。



  赤羽拓斗は、ひとり頭を抱える。

  静かなはずの自室に響くのは、やけに大きく重いため息。今朝方見た天気予報がまるで嘘のように、窓の外ではしとしとと雨が降り注いでいた。
  拓斗が今思い悩んでいる原因は他でもない、幼馴染にある。時にかっこよく、時に可愛らしく、そしてなによりかけがえのない恋人でもある蒼司は、いささか無防備な節があった。そもそも自分が美人であることをまるで理解していないらしく、人前でも平気で色っぽい仕草を取るのだからいただけない。おかげでどれほど拓斗が気を揉んでいるのか、きっと蒼司は気づいていない。
  ――そう、蒼司なのだ。拓斗は先ほど玄関先で見た姿を思い返し、再び溜め息をつく。
  拓斗が玄関の戸を開けると、そこにはずぶ濡れの蒼司が立っていた。蒼司を待つ間、予想外の雨が降り始めていたのは拓斗とて知っている。だが雨に降られやすい蒼司は日頃から折り畳み傘を持ち歩いているはずなので、まさかこんな姿で目の前に現れるとは思っても見なかった。
  蒼司を見た瞬間、拓斗は全身にかっと熱が溜まっていくのを感じた。しっとりと濡れた艶やかな髪。滴る雫はぽたぽたと垂れ、ゆっくりと頬を伝い落ちていく。張りついたシャツはその下にある肌の色をほんのりと透かして、あらぬ想像を掻き立てた。どこをとっても扇情的で、あまりにも目の毒だった。
  だからあのときの拓斗には、このままでは蒼司が風邪を引くかもしれないなどと思っている余裕はなかったのだ。ただどうしようもなく目が奪われて、だからこそ同時に目を逸らした。突き動かされるようにタオルを準備し、「風邪を引くから」と後付けの理由とともに風呂場へと連れて行き、今に至る。蒼司に風邪を引いてほしくないのは事実だが、それはそれとして、このあとどんな顔で蒼司を見ればいいのだろうか。欲望のままに蒼司の白い肌に触れたいと、彼のすべてを暴きたいと、そう思ってしまう心を必死に抑えて拓斗は懸命に理性を繋ぎとめる。
  だって当然だろう。この家には今、拓斗以外の家族もいるのだから。そのことは蒼司も知っているはずなので、下手に手を出せばむしろ彼を怒らせかねない。それに幼い弟や妹がいる自宅で事を起こすのは、いくら拓斗といえどもさすがに憚られた。するとそのとき、軽いノックとともに自室の部屋が開け放たれる。
「拓斗、風呂ありがとう」
「え!?  ……あ、うん、おかえり蒼司!」
「……拓斗?」
  拓斗の態度を見るなり、蒼司はどこか訝しげに首を捻る。だがさほど気に留めていないのか、おもむろに拓斗の傍へと腰を下ろした。そしてすぐ隣で息をつく蒼司に、拓斗は思わず瞠目する。
  タオルドライで済ませているのか、深い色の髪はあいかわらず濡れたままだ。それどころか風呂上がりのせいで頬はうっすらと上気しており、首にかけているタオルの隙間から覗く肌さえも赤らんでいた。そして極めつけは臨時の着替え用に貸した、拓斗自身の部屋着である。体格差ゆえに少しだけ大きいようで、開いた襟ぐりからは無防備にも胸元が見えていた。
  どうして服を貸すなんて言ってしまったのだろうと、拓斗は内心頭を抱える。だが蒼司に濡れた服を再び着させるわけにはいかないので、何度同じ場面をやり直したとしても結局は服を貸すことになるのだろうけれど。拓斗は取り急ぎタオルを引っ掴むと、がしがしと蒼司の髪を拭く。しかし「ちょっと待って」と困惑したような声が聞こえ、すぐに手を止めた。
「ほんとなんなんだよ、急に……」
「蒼司、なんで髪乾かしてないの!」
「え?  だって乾くだろ、これくらい」
「もー!  俺にはいつもちゃんと乾かせって言うくせに!」
「ええ……?  やっぱお前、今日なんか変じゃないか?」
  蒼司は眉を顰め、そっと拓斗の顔を覗き込んでくる。まじまじとこちらを見つめるあおい瞳には、困惑を通り越して心配さえ滲んでいた。瞬間、拓斗の中でなにかがぷつんと切れる音がする。気がつけば、拓斗は蒼司の柔らかな唇を吐息ごと奪っていた。
「ッ、ん……!?  ぅ、っ……ふ、……は、」
  拓斗は幾度も角度を変えながら、気が赴くままに唇を啄んでいく。息継ぎの合間に洩れる蒼司の声にすら昂って、よりいっそう貪りたくなった。しばらくして解放してやれば、蒼司は乱れた呼吸を整えつつ拓斗を睨めつける。少しだけ目に涙を浮かべている姿に思わず卒倒しとうになるが、拓斗はすんでのところで堪えた。
「っ……、拓斗、いきなりなに……」
「ごめん、だって……あんまりにも蒼司が……エロくて……、その……」
「はあ……!?  おま、なに言って……!」
  瞬く間に、蒼司の白い肌は朱く染め上げられていく。それどころか耳の先まで真っ赤になって声を震わすさまに、拓斗までもがつられて頬を赤らめた。
「だって!  蒼司が無防備すぎるのもよくないと思う!  もっと自覚して!」
「なにをだよ!  ……ていうか俺にそんなこと言うもの好きなやつ、お前くらいだろ」
「それは……。……あーもういいや、それでも」
  拓斗はため息をこぼし、勢いよく蒼司の身体を抱きすくめる。腕の中に感じるのは、普段よりもずっとあたたかな体温。一瞬の緊張もすぐに解かれ、そのまま背に蒼司の腕がそろりと回される。首筋から薫る石鹸の香りにほんの少し熱を煽られながらも、拓斗はなんとか懸命に抑え込んだ。
  好きだよ、と蒼司の耳元で静かに囁く。好きだからこそ蒼司を大切にしたいし、無防備すぎる姿をあまり他者の目に晒したくはない。それに人からはよく鈍感と言われるが、蒼司だって似たようなものだと拓斗は内心思う。決して蒼司に無理強いはしたくないのだが、心配する気持ちをわかってほしいと思うのもまた恋人心というものだろう。
  ――俺も好き、と。今はただ愛おしい体温を堪能しているばかりの拓斗が、消え入るようなほどの声に追撃を喰らうまであと五秒。