燦々と光を放っていた陽も漸く落ち、緩やかに辺りが暗闇へと包まれていく夕刻のこと。普段よりも賑わうパブリックビューイング広場の片隅で、遊作はひとりぼんやりと佇んでいた。
行き交う人々を横目に、流石に人が多いな、などと遊作はふと思う。その中には浴衣姿もちらほらと見てとれることから、やはり考えることは皆同じなのだろうと得心がいった。というのも、この日は海沿いで花火大会が開かれるのだ。交通の利便性もあってか、この広場は待ち合わせをするにはうってつけなのだろう。かくいう遊作もまた、そうした人々のうちのひとりなのであるが。
事の発端は数日前、了見の自宅で何気ない時間を過ごしていたときのことだ。普段はあまりついていないテレビを何の気なしに起動させると、花火大会特集なるものが放映されていた。夏の風物詩として名高いせいか、この季節になると毎年のように似たような特集を見かける気がしている。だがこれまでこういったものとはまるで無縁であった遊作にとっては、幾ら夏の風物詩だと言われようともいまひとつ関心が持てなかった。
それは風物詩を気に留めるほどの心の余裕もなければ、ましてや共に見に行きたいと思える人もいなかったからだ。だが全てが一段落して平穏な日々を送り始めた今、遊作の中では少しばかりの興味が芽生え始める。
「了見は花火大会、行ったことあるか?」
「花火大会? ……ないな、そういえば。この辺りからも自然と見えるから、あまり意識したこともなかったが」
ほら、と了見は無駄に広いガラス窓を指差す。なるほど、確かにこのオーシャンビューであれば視界には入るのかと思いながら、遊作はそうかと小さく頷いた。
ひとたび関心を抱いたせいか、了見と花火大会に行ってみたいという気持ちが沸々とわき上がってくる。遊作は手元のPDAを手早く操作し、インターネットで検索を掛けた。すぐにヒットした記事を開くと、どうやらデンシティでも規模の大きい花火大会が一週間後に開催を控えているらしい。日程と場所の記載された記事を表示したまま、遊作はPDAの画面を了見のほうへと向けた。
「今度、この辺りで花火大会があるらしい。了見と一緒に行ってみたい」
「人が多そうだな。あまりそういう場所は気が進まないが……まあ、お前とならば行ってやらないこともない」
「本当か!?」
「全く、嘘を言ってどうする」
仕方がないなと目を細めながらそう口にした了見は、思いの外満更でもなさそうだ。内心安堵を浮かべながら、遊作は嬉しいと素直に呟く。ほんの僅かに色づいた了見の頬を認めて心を弾ませていると、今度は了見のほうから口を開いた。
「……そうだな、折角だから浴衣を着ていくことにしようか」
「浴衣の了見か。楽しみだな……」
「ああ、言っておくがお前も当日は浴衣だからな」
「俺もか?」
「当然だろう」
そうか、当然なのか。さらりと言い切った了見に何も疑問を抱くことなく、遊作は頷く。あいにく浴衣は持っていなかったが、了見と過ごす花火大会を思えばきっと準備すら楽しめるだろう。楽しみだともう一度呟けば、私もだと了見にしては素直な言葉が返ってきたのを、今もなおはっきりと覚えている。
了見と約束を交わしてからすぐに、遊作は浴衣選びに勤しんだ。手始めにインターネットの海を泳ぎ回ってみたものの、いまひとつイメージが掴めずに、結局は草薙や尊に相談を持ちかけたのもいい思い出だ。そうしてなんとか選んだ浴衣を見よう見まねで着付け、今漸くこの場に立っている。未知の経験に苦労はしたものの、やはり了見を思えば苦でもなんでもなかった。
だがそれにしても暑いなと、遊作は自身の手のひらを団扇のようにして、顔の前でぱたぱたと扇ぐ。家を出る前に軽くシャワーを浴びてきたというのに、じっとりとした熱が遊作の身体に纏わりつくようだ。日中に比べると気温も落ち着いているとはいえ、この時間になってもやはりまだ暑いと言わざるを得ない。了見は大丈夫だろうかと思案していると、不意に柔らかな風が遊作の頬を掠めた。
「遅くなってすまない。待ったか?」
「了見。……いや、俺もさっき来たところだ」
お決まりの台詞を返せば、了見はふっと笑みを浮かべる。すらりとした長身で浴衣を着こなす了見は、この暑さだというのにどこか涼やかにも見えた。別に了見の見目に惹かれたわけではないものの、その整った立ち姿には思わず見惚れざるを得ない。なにせ初めて見る浴衣姿なのだから、今ばかりは許してほしい。誰に許しを乞うているのかすらわからないが、遊作はただ目の前の了見にばかり釘付けになっていた。
「似合っている、すごく……」
「そうか、ありがとう。お前もよく似合っているじゃないか。……ああ、けれど少し衿元が歪んでいるな」
そう言うと、了見は自然な動作で遊作の衿元を正してくれる。すると不意に了見から、嗅いだことのない香りがふわりと漂ってくるのを感じた。普段香水の類いをつけないはずの了見だが、今日は何かしらの芳香を身に纏っているらしい。了見らしい落ち着いた、けれどもどこか甘やかにも感じるその香りに、遊作の心臓が高鳴る。遊作は了見にありがとうと伝えると、そのまま言葉を続けた。
「今日の了見、いい匂いがする」
「ふふ、気づいたか? ……これだよ」
了見が懐から取り出したのは、小さな巾着袋のようなものだった。どうやら匂い袋と呼ばれるらしいそれは、その名の通り柔らかな芳香を放っている。お気に召したようでなによりだ、と呟きながらそれを仕舞い直す了見は、悪戯を成功させた子供のような笑みを浮かべていた。
「折角だからと思ってな。悪くないだろう?」
「ああ、いいと思う。……そろそろ、行こうか」
遊作は頬を緩ませながら、了見の空いた手のひらをそっと浚う。そのまま指先を絡めると、了見の顔がなにかを言いたそうにしていることにふと気がついた。恐らく了見は、ここが往来の真ん中であることを気にしているのだろう。だがそれでも振り払われないのをいいことに、遊作はそのまま歩みを進める。からんころんと小気味よい足音を耳にしながら、重なった手のひらに少しだけ力を込めた。
「流石に、凄い人混みだな……」
「そうだな」
花火大会の行われる海辺は、既に大勢の見物客で賑わいを見せていた。周囲には縁日が立ち並び、ひとたび気を抜けばすぐにでもはぐれてしまいそうだ。花火が打ち上がるまでにはまだ幾分時間があるが、それまでこの辺りをぐるりと見てみるのもいいかもしれない。
たこ焼き、焼きそば、りんごあめ。射的に金魚すくい、それからベビーカステラ。ところ狭しと並ぶ屋台には、どうやら様々なものが売られているようだ。今まで創作物でしか見たことのなかった光景に、遊作はどこか浮き足立ったような心地になる。ちらりと了見のほうを見遣れば、彼もまた遊作ほどではないが、周囲を興味ありげに見回している。了見、とそっと呼びかけると、彼の視線は屋台から遊作へと戻ってきた。
「了見、先になにか食べるか?」
「ふむ……そうだな。この人混みだし、やはり食べやすいもののほうがいいだろうか。たこ焼きはどうだ?」
「わかった、ならたこ焼きとイカ焼きだな。……あと、りんごあめも食べてみたい」
「いいだろう。それでは一先ずたこ焼きとイカ焼きを調達しようか」
目的地を定め、ふたりは目当てのものが売られている屋台へとまっすぐ足を向ける。そして無事にそれらを購入すると、屋台の立ち並ぶ通りから少し外れた場所に落ち着いた。
「ほら、遊作」
口を開けてと言いながら、了見が爪楊枝に刺したたこ焼きを差し出してくる。遊作は言われるがままに口を開け、出来立てのたこ焼きを一気に頬張った。けれどもたこ焼きは思いの外熱く、遊作ははふはふと口内で冷ましながらなんとか食べ終える。うっすらと涙目になる遊作を見ながらくすくす笑っている了見に、今度は遊作が手にしていたイカの姿焼きを差し出した。
「……あまり笑うな。了見も、ほら」
「ふふ、まさかお前が一口でいこうとするとは思わなかったから、つい……な?」
了見は自身の横髪をそっと耳に掛けながら、イカの姿焼きにかぶりつく。なかなかいけるな、と感想を述べる了見はどこか満足げだ。遊作も自らの分のイカ焼きを食べると、甘じょっぱい味が口いっぱいに広がる。なるほど、確かに美味しい。初めて味わう屋台の味というものに半ば感動しながら、遊作は了見と共に食事を続けた。
屋台での軽い夕食を終え、二人分のりんごあめを購入した頃には既に、花火の打ち上がる時間が目前に迫っていた。ふたりは他の見物客に倣い、人だかりの中で打ち上げのそのときを待つ。
――いよいよだ。遊作が期待に胸を膨らませていると、不意にひゅるると変わった音がした。そうかと思いきや、すぐに炎の弾ける音が一帯に轟く。
夜空に咲き誇る、大輪の華。色とりどりの花弁が濃藍の宙に開いては散り、また開花して、散っていく。初めて間近で見る花火に、遊作は目を見開いた。今まで大した関心すら持てなかったはずのものが、こんなにも美しく思えるなんて。これもきっと了見と一緒に見ているからだろうと思いながら、遊作は隣にいる彼をちらりと盗み見た。
花火が打ち上げられる度、はらはらと了見に降り注ぐ数多の光。透けるような銀糸は花火の色を吸い込んだかのように鮮やかに照らされて、薄氷の瞳は朝陽を受けた湖のように煌めいている。蜂蜜色の肌に落ちた光は時折影をかたち作り、了見の持つ顔立ちの良さをより一層引き立たせた。
――綺麗だと思った。美しいと思った。花火よりもずっと、了見のことが。
まるで吸い寄せられるが如く、了見から目を逸らせなくなる。一秒でも長くこのうつくしいひとを見ていたくて、先程まで夢中になった夜空のことなどそっちのけで、ただ遊作は花火を見つめる了見の横顔ばかりを見つめた。
果たしていつまでそうしていただろうか。夜空を見上げていたはずの了見と、ふと視線がかち合う。思わずどきりと跳ねる心臓を押さえつけると、了見は子供の悪戯を見咎めたようにふっと笑みを零した。
「……ほら、私ばかりを見ていないで。今日は花火を見に来たんだろう?」
「気づいていたのか……」
「お前の視線がうるさかったからな」
流石に気がつくと言った了見の頬が、うっすらと赤く染まっている。そのことを視認した遊作は衝動の赴くまま、つと腕を了見へと伸ばす。そして間髪入れることなく顔を寄せ、唇を重ねた。
「っ、お前ここをどこだと……!」
「別に、誰も見てないだろう」
「そういう問題ではない……!」
周囲が花火に夢中になっている上、この暗さだ。軽い口づけを交わしたところで、それをわざわざ見咎める野暮な人間など、そう居やしないだろう。けれども了見はやはり気にかかるようで、宵闇の中でも分かるほど顔を赤らめながら小声で捲し立ててくる。
そういう可愛い姿を見せられると尚更キスしたくなるのが、男心というものなのではないだろうか。などとは思いつつも、これ以上了見の気分を損ねてしまうのも得策ではないので、遊作はこの場では一先ず大人しく引き下がっておくことにした。
「わかった、悪かった。……なら続きは帰ってから、な?」
「っ、遊作……!」
そっと耳元で囁けば、了見は言葉を詰まらせて遊作から目を逸らしてしまった。わざとらしく夜空に向き直った彼の耳が真っ赤に色づいていることを、遊作だけが知っている。普段は凛々しい了見のこんな姿が見られるのは、遊作だけなのだ。心からわき上がる優越感に浸りながら、遊作もまた夜空へと向き直る。
満開に咲き誇る花々も、いよいよクライマックスだ。テンポよく打ち上がる花火は、まるで大きな花束のようにも見えた。――綺麗だな、と。何の気なしに独りごちた言葉に、隣からそうだなと返事が返ってくる。ただそれだけで、遊作の心は酷く温かな感情で満ちていく。
来年も、再来年も、そのまた先も。了見とふたりで、この花火を見られますように。優しく祈りを込めるように、遊作は了見と手のひらを重ねた。