こんなにも好きになっていたなんて、思ってもみなかった。
拓斗から一件のマインが届いたのは、時刻が二十四時になってすぐのことだった。日付が変わり、九月十七日。となると、用件はおおよそ想像がつく。蒼司はマインを開き、メッセージを確認した。
『蒼司、誕生日おめでとう! 今から俺の部屋、来れる?』
予想通りの文面に、蒼司は人知れず笑みを浮かべる。昔から毎年のように誕生日を祝ってくれる拓斗は、本当に律儀だと思う。思い返せば、幼い頃はよく登校中や遊んだときに祝われたものだ。それが互いに自分のスマートフォンを持ち始めた頃からは、「一番に祝いたい」とまずこうして文章が送られてくるのが恒例となっていた。
どこか擽ったい気持ちはあるものの、嬉しくないはずがない。いつしか蒼司の心に芽生えてしまった、決して告げることのない想いが、尚更そう感じさせる。
それにしても、「今から来れる?」と訊かれたのはいささか予想外だ。横浜滞在中の今、ともに菩提樹寮で暮らしているのだから、以前よりも簡単に会えるといえばそうなのだけれども。特段断る理由もないので、蒼司はそそくさと自室から出た。マインに返信するよりも、直接赴いたほうが早いに決まっている。すぐ隣にある拓斗の部屋の扉を、蒼司はこんこんと軽くノックした。
「入るぞ」
内側からの返事を待つことなく、蒼司は部屋に入る。すると椅子に腰かけていた拓斗が、わ、と小さな声をあげて盛大にスマートフォンを取り落とした。どうしてそんなに驚くのだろうか。部屋に来いと言ってきたのは、拓斗のはずなのに。蒼司はため息を吐き、ゆっくりと拓斗に近寄った。
「え、待って蒼司、来るの早、」
「なにしてるんだか、まったく」
妙に慌てた様子の拓斗をよそに、蒼司は床に転がっているスマートフォンへと手を伸ばした。待って、と言われても、椅子に座ったままでは自力で取ることも難しいだろうに。蒼司は落ちている端末をそっと拾い上げる。だが拓斗に返そうとしたとき、ふとディスプレイに目が留まった。
そこに表示されていたのは他でもない、蒼司の写真だ。思わずディスプレイをスワイプする傍ら、「返して」という拓斗の言葉が耳を通り抜けていく。そうして次々に映し出されていく写真には、やはり決まって蒼司の姿があった。――いや、それだけではない。そのどれもが、蒼司の身にもなんとなく覚えがあるものばかりだ。
(こっちはふたりで出かけたときので、こっちは路上ライブのあとだな。……で、こっちはたぶん拓斗の誕生日の……だと思う)
何枚もの写真を眺めながら、蒼司は当時のことを想起する。よく考えると、この写真の大半は拓斗から「写真を撮りたい」と言われたあとだったような気がしてきた。とはいえ蒼司としては一度も許可した覚えがないのだが、理由を訊いたところではぐらかされて、いつの間にか撮られてしまっている。それでもいちいち「消してほしい」と言うのは面倒で、なんとなくそのまま許し続けていたのだった。
例えば旅行先や行事での思い出を残すために撮った写真ならば、まだ理解はできる。だが手元にの写真に映っているのは、なんてことのない日常の光景だ。それなのに、どうして拓斗はわざわざ蒼司だけが被写体となった写真を撮りたがったのだろうか。それも一度や二度ではなく、何度も。沸々と疑問が湧き上がる中で拓斗を見遣れば、どこかきまりが悪そうにしていた。
「拓斗、これ……」
「ごめん! 変なことには使ってないから!」
拓斗に勢いよく謝られ、蒼司は思わずたじろぐ。変なことってなんだ、と内心思いながら、ひとまず手元のスマートフォンを拓斗に返した。勝手に見てごめん、とひと言謝れば、こっちこそごめん、ともう一度謝られる。かた、と机上に置かれる小さな物音が、拓斗の後ろから聞こえた。
「……お前がたまに俺を撮りたいって言ってたのは、こういうことなんだな」
「あー……、うん。ほんと、ただひとりで見るためっていうか……。普段は誰にも見られないようにフォルダも分けてて、気をつけてたんだけど……」
珍しく口籠る拓斗を、蒼司は怪訝な表情で見つめた。それでも心に浮かび上がったままの疑問は、未だ消えてはいない。
「ていうか、なんで俺の写真なんか……。他にももっと、なにかあるだろ」
「え、だってそれは……、蒼司のことが好きだから」
「……は? なに、言って」
途端に、すっと頭の中が冷えていく感覚。思ってもみなかった拓斗の言動に、蒼司は目を見開いた。
信じられない、信じられるはずがない。だってそんな素振り、一度だって気づかなかったのに。いや、そもそも拓斗の言う「好き」と、自身の中にある感情が同じものだとは限らないではないか。ぐ、と手のひらを握りしめ、蒼司は僅かに目線を逸らす。
「ごめん、ほんとは全然言うつもりなかったんだけど。……でも、やっぱ言わせて。俺、ずっと前から蒼司が好きだったんだ」
「っ……」
「もちろん友達としても好きだけど、それだけじゃなくてさ」
拓斗の腕が緩やかに蒼司の腰へと回り、どこか控えめに抱きすくめられる。見上げるような目線の位置と、まっすぐに向けられる翠の瞳。普段とは違うその眼差しに、蒼司は思わず息を呑んだ。
「ね、蒼司。……俺と付き合って」
握り潰されるような痛みが、蒼司の心臓を走る。嬉しいに決まっているのだ。どこまでも真摯な拓斗の言葉には、噓偽りなんて微塵も含まれていない。わかってはいるけれど、受け入れてもいいのだろうかという思いが、蒼司の心によぎってやまなかった。拓斗にふさわしい人は、きっとどこか他に存在しているに違いないというのに。
それでも、もしも拓斗が望んでくれるのならば。こんな自分でも構わないと言ってくれるのならばと、蒼司は恐る恐る拓斗を見つめた。視線の先にあるのは、ただひたむきな瞳だけ。自然と目が合って、すぐに優しく微笑まれた。それから蒼司、ともう一度名を呼ばれる。穏やかに響く声は、まるで静かに手を差し伸べるようだった。
「……俺で、いいの? ほんとに」
「蒼司でいいんじゃなくて、蒼司がいいの、俺は!」
もう、と少しだけむくれながら、拓斗はおもむろに椅子から立ち上がった。正面から見据えられると、目線の位置は僅かに逆転する。するりと伸びてきた手が、つと蒼司の頬へと触れた。
「なあ、蒼司。もし本気で嫌だったら、俺のこと突き飛ばしてもいいからな」
「え、」
言うが早いか、拓斗の顔がそろりと近づいてくる。唐突な行動に対応する間もなく、蒼司は咄嗟に瞼を閉じた。瞬間、柔らかなものが唇に当たる。けれどもそれは、かすかなぬくもりだけを残してすぐに離れていった。
瞼を開けば、目の前の頬がほんのりと朱く染まっている。キスをされたのだと、混乱する蒼司の頭はようやくそこで理解が及んだ。
「どう……?」
「どう、……って、そんなこと、っ……言われても」
「じゃあ、嫌じゃなかった? ……それだけは教えて」
「……嫌、じゃない」
蒼司がなんとか言葉を絞り出せば、拓斗は「よかった」と安堵を洩らした。熱の溜まった顔が、ひどくあつくてたまらない。嫌どころか、むしろ心は歓喜に震えていた。早鐘を打つ鼓動がうるさくて、蒼司は無意識に唇を噛む。
本当にどうしようもない。秘匿したかった感情が想像以上に育っていたという事実を、こうしてまざまざと見せつけられてしまうなんて。もういい加減、隠しきることなんてできない。いや、隠す必要はないではないか。拓斗はこんなにも、蒼司を想ってくれているというのに。
この選択がのちに後悔を生もうとも、今ここで拓斗を拒むほうがより深く後悔してしまうに違いない。それならば、と蒼司はようやく覚悟を決め、静かに口を開いた。
「……好きだよ、俺も。拓斗のこと」
「ほんとに……!?」
「……うん」
「そっか。あー……どうしよ、めちゃくちゃ嬉しい」
すっと目を細めながら、拓斗は噛みしめるように呟いた。それからすぐに、蒼司の身体は心地よいぬくもりに包み込まれる。自分よりも高い体温は、幼い頃から傍にあるあたたかさだ。もう少しだけ近くに感じていたくて、蒼司はおずおずと抱きしめ返した。
しばらくそうして互いのぬくもりに浸っていると、ふとなにを思ったのか、拓斗が「そうだ」と口にする。なに、と蒼司が返せば、拓斗は抱きしめる腕の力を緩めて微笑んだ。
「な、蒼司。また写真撮っていい? 今度はさ、一緒に撮ろうよ」
「……ん、いいよ」
「やった! じゃあ俺、準備するな」
そう言うなり、拓斗は机上に置かれたスマートフォンを手に取る。そしてカメラアプリを立ち上げると、そのまま眼前に端末を構えた。
「よし、撮ろ! ……ほーら蒼司、もっと近く来てよ」
「っ、もう充分近いからいいだろ」
「だってちゃんと寄んなきゃ、いい感じに映んないし」
「だからってそんな、おい拓斗……!」
拓斗に肩を抱き寄せられ、互いの距離は自然と縮まっていく。先ほどまで抱きしめあっていたというのに、どうしてこんなにも恥ずかしいのだろうか。決して嫌ではないけれど、今はただどうしようもなくこの近さを意識させられてしまう。
撮るよ、ともう一度拓斗の声がかかり、蒼司は渋々インカメラに顔を向けた。画面に映し出されているのは、どこか面映ゆさの滲むふたりの姿。ぱしゃ、と軽いシャッター音が鳴り、一瞬が写真となって鮮明に切り取られていく。
「……よし、いい感じ。蒼司のスマホにも送っとくな」
「わかった」
嬉しそうに端末を操作する拓斗に、蒼司は頷いた。部屋に置き忘れたスマートフォンにも、すぐに写真が届くだろう。拓斗は再び机の上に端末を置くと、すぐに蒼司へと向き直る。
「誕生日おめでとう、蒼司。それから……、これからもずっとよろしくな。大好きだよ」
「ありがとう。……こちらこそ、よろしく」
拓斗に抱き寄せられるまま、蒼司は腕の中に収まった。今日くらいは素直になっても、きっと罰は当たらないはずだ。拓斗の胸に顔を埋め、好きだよ、とかすかに呟く。痛いくらいに腕に力を込めてくる拓斗にかたちだけの抗議をしながらも、蒼司は知らず知らず頬を緩ませていた。
暑さも和らぎ始めた秋の日に、祝福の音色が鳴り渡る。これは想いを結びあったふたりの、未来へと続く第一楽章。