夏の終わりのやり残し

星明かりの交響曲の際に登録していたネップリの再録です


「蒼司ー!」
  勉強道具一式を片手に、拓斗は勢いよく部屋の扉を開けた。部屋の主――蒼司は、拓斗と目があうなり、盛大なため息をこぼす。またか、とはっきり顔に書かれていることから、おおよその用件は理解しているのだろう。
  夏休み。それはまさに、イベントの宝庫ともいえる期間だ。海にプール、花火、縁日、その他にもさまざまな楽しみが溢れ返っている。やりたいことは両手でも数えきれないほどにあって、拓斗はそのひとつひとつを存分に満喫したいと思っていた。それもこれも、夏という季節が大好きだから。だからこそ、ついつい後回しにしてしまうのだ。面倒な夏休みの宿題というものを。
  毎年のように宿題を放置しては、休暇が終盤に差しかかった頃になって蒼司の元へと助けを求めに行く。それがもう長い間、拓斗のお決まりのパターンだった。それを見越してか、蒼司も夏休みに入ると定期的に「宿題は?」と進捗を訊いてくる。だがその都度、拓斗は「大丈夫、なんとかなるって!」と返答してしまい、結果的に勉強会は夏の恒例行事となってしまっていた。
  あくまでも蒼司は、「宿題は手伝わないからな」という姿勢を貫いている。だがそれでも拓斗がわからないと質問をすれば丁寧に教えてくれるし、最後まで付き合ってくれるのだ。なんだかんだで面倒見がいいからこそ、拓斗はつい蒼司を頼ってしまいがちになる。毎年のことで、本当に申し訳ないとは思うのだけれども。
「……で、どこまで終わってるんだ?」
  言いながら、蒼司は腰かけていたベッドから立ち上がった。楽譜を手にしているところから、恐らくは譜読みでもしていたのだろう。当然、拓斗とは違って課題はとうに終わらせているはずだ。拓斗は勉強道具を机に置くと、備えつけの椅子に座った。
「えーと、現文と化学が半分くらいだろ? あとは英語と数学と……。あ、でも日本史はだいたい終わってるから!」
「……いや、少なくとも半分くらいは終わってないってことだろ、それ」
「あ……はは……」
  はっきりと言い直され、拓斗は思わず乾いた笑いをこぼした。蒼司の言うことは至極もっともであり、拓斗にはまるで反論のしようがない。実際、宿題の進捗はおおむね蒼司の発言した通りだ。
  机上に置いていたノートのひとつを、蒼司がぱらぱらと軽く捲る。そして白紙の続くそれを少しばかり見たあと、声色に呆れを滲ませながら拓斗に目を向けた。
「毎年毎年、ほんとによく懲りないな……。第一、こまめにやってたら終わるだろ、これくらい」
「こまめにやるのができないんだよなあ」
「お前な……。もうなんでもいいから、さっさと始めろ。どうせ一日じゃ終わるわけないんだから、ほら」
「はーい」
  蒼司に急かされながら、拓斗はようやく宿題を机上に広げた。気は進まないが、やらねば終わらないのもまた事実である。厳しい蒼司の目が届くところで取り組むことにより、嫌でも宿題に向き合わねばならない状況を作るという作戦だ。
  そんな拓斗をよそに、蒼司はベッドに再び腰かけて譜読みの続きを始める。とりあえず頑張るぞ、と心の中で意気込んで、拓斗もまた宿題の山と対峙した。

  どうしよう、終わる気がしない。
  拓斗はテキストの山に埋もれながら、早くも力尽きようとしていた。といってもひとりで宿題をするときよりもずっと集中はできているのだが、わからないところを考えているうちに集中の糸がぷつんと途切れてしまったらしい。
  机に突っ伏しながら、拓斗は何気なくベッドのほうを見遣る。五線譜を静かに目で追っている蒼司は、拓斗と違ってきちんと集中しているようだった。蒼司が思案している最中、ふとした拍子に艶やかな髪の束がはらりと頬にかかる。瞼を縁取る睫毛はあいかわらず長くて、気がつけば拓斗は夢中になって蒼司を見つめていた。
(やっぱ綺麗だな、蒼司って……)
  きっと頭の中には、鮮やかなメロディーが流れていることだろう。声には出していないものの、蒼司の唇は小さく音を辿っているようだった。そんな蒼司に見入りながら、拓斗の中では不埒な欲求ばかりが込み上げてくる。あの唇にキスをして、さらさらの髪に触れて、それから。けれどもいざ実行に移してしまえば、蒼司を怒らせるどころか、しばらくは口すら利いてもらえないかもしれない。わざわざ部屋に押しかけてきたくせに宿題をする気はないのか、と。それは嫌だなと思いながら、拓斗は顔を出し始めた欲望をぐっと心の奥へと押し込んだ。
  もはや、ペンを持つ拓斗の手はひとつも動いていやしない。こんなことではだめだと、集中しなくてはと、そう思えば思うほどに拓斗の視線は蒼司から逸らせなくなってしまっていた。部屋の中だからか、今の蒼司は随分とラフな格好をしている。そのせいで、白い首筋のラインが無防備にも露わになっていた。どうしようもなく欲を煽る蒼司の姿に、拓斗は無意識に唾を嚥下する。そのとき、楽譜を読み込んでいたはずの蒼司と目があった。
「拓斗、お前な……さっきから見すぎ」
「あ。……蒼司、気づいてたんだ」
「あれだけ見られてたら気づくだろ、普通。……ほら、早く宿題。手が止まってる」
  ぶっきらぼうに告げた蒼司の頬は、心なしかうっすらと朱く染まっている。それどころか、首筋までもが色づいているようだった。どことなく恥ずかしそうにしながら話題を変える蒼司が可愛くて、拓斗は思わず頬を緩ませた。すると蒼司がおもむろに立ち上がり、拓斗の傍に近づいてくる。
「……で、いま、なにやってるの」
「英語だけど……って、え」
  瞬間、拓斗の心臓がどきりと盛大に跳ねる。すぐ真横にある、綺麗な横顔。聴覚を擽る、透き通った声。蒼司が手元のノートを覗き込んできたのだと、拓斗の頭は少し遅れてからようやく理解した。
「ここ、文法が違う。これだと意味が通らないから、……」
  今このときも、蒼司はノートとテキストを指さしながら丁寧に説明をしてくれている。だというのに、拓斗の耳にはろくに届いていなかった。集中しなくてはいけないのだと頭ではわかっているのに、つい蒼司の横顔ばかりを見つめてしまう。
「……で、だからここは……、っておい拓斗、聞いてるのか」
「あ、えっと……ごめん」
「はあ……。やっぱり聞いてなかったし」
  拓斗が眉尻を下げて謝ると、蒼司は本日何度目かのため息を吐いた。さすがに怒らせただろうかと、拓斗はそっと蒼司の顔色を伺う。すると蒼司は僅かな逡巡ののち、「わかった」と呟いた。
「この単元終わったら、休憩にするから。……ご褒美、なにか考えといて」
「ご褒美?」
「そう。ご褒美があれば、いくら宿題する気のない拓斗でも、少しは頑張れるだろ」
  この単元ということは、今のところから数えて残り三ページほどだ。そこまで終えれば、ひとまず休憩がもらえるだけでなく、なんと蒼司が「ご褒美」をくれるらしい。自分でも現金だとは思いつつも、拓斗は少しずつやる気が戻ってくるのを感じた。
「うん、なんか頑張れそうな気がしてきたかも!」
「よし。……なら、終わったら声かけて」
  それだけ言い残し、蒼司は静かに拓斗から離れていく。「わかった!」と拓斗が元気よく返せば、蒼司はつられたようにはにかんだ。拓斗は改めて机に向き直り、気合を入れ直す。せめてあと少し、もう少しだけと。意気込みを新たに、ペンをしっかりと握りしめた。

「終わったー!」
  拓斗は勢いよくペンを置き、ぐ、と椅子の上で身体を伸ばす。わからないところは蒼司にその都度質問はしたけれども、なんとか指定された場所までの宿題は完了させた。お疲れさま、と口にしながら、蒼司が拓斗の傍へと近づいてくる。その表情は、先ほどまでと比べてにこやかだ。
「真面目にやればちゃんとできるのに。なんでこう、いつもギリギリまでやらないんだか」
「だって、やりたいこといっぱいあるし」
「はあ……。言っておくけど、まだ全然終わってないからな。しばらくは毎日勉強会」
「えー」
「えーじゃない。自業自得だ」
  嫌ならひとりでやれ、と蒼司に軽くあしらわれそうになり、思わずごめんと謝る。それでもやはり拓斗が宿題を終えるまで、一応付き合ってはくれるらしい。あいかわらず優しいなあと思いつつ、拓斗はありがとうと蒼司に伝えた。
「……で、さっき言ってたご褒美なんだけどさ」
「無茶なこと以外な」
「うん。……キス、したいな。できれば、蒼司からだと嬉しい」
「っ、……」
  拓斗がストレートに要求を伝えると、蒼司の顔は瞬く間に朱く染まっていく。静かに目を逸らされて、なにかを言い淀んで。そのさまをじっと見つめていると、やがて蒼司の目線は拓斗のほうへと戻ってきた。
  わかった、とだけ蒼司が小さく呟く。それからすぐにおずおずと顔を寄せてきて、ほんの一瞬、唇に柔らかなものが触れた。は、と熱い息がかすかに口許へとかかる。愛おしさと物足りなさが綯い交ぜとなり、拓斗は蒼司の頬に手を伸ばした。無意識なのか、手のひらに頬を摺り寄せてくる蒼司の仕草が可愛らしくて堪らない。
「……これで、いい?」
「うーん、もう一回したいな」
「えっ、……。なら、終わったら続き、ちゃんとしろよ」
  拗ねたような口ぶりだった。それでももう一度、拓斗の唇に蒼司のそれが重ねられていく。やはりまだ離れがたくて、拓斗は蒼司が離れていくよりも前に、彼の腰を抱き寄せた。そして吐息ごと奪うように、薄く開かれた隙間へと舌を差し込む。
「っ、ん、ぅ……、ふ」
  逃げる舌を捕まえて、甘く吸って、口蓋を優しく撫であげて。我慢していた分までしっかりと堪能するように、拓斗は蒼司の口内を弄っていく。そのたびに、蒼司は身体を震わせながら吐息をこぼした。いつの間にか背に回されていた腕に力がこもり、より一層ふたりの距離は近くなる。
  しばらくして拓斗が解放すると、蒼司に睨めつけられた。だが拓斗の目には怖いどころか、むしろ可愛い仕草にしか映らない。
「ああもう、拓斗!」
「だめだった?」
「だめ……じゃない、けど。……っ、やっぱりだめだ!  続きは今日の分が終わってから!」
「ってことは、今日の分が終わったら、またキスとかいろいろしてもいいの?」
「っ……。……まあ、考えとく」
「やった!」
  思いがけず提示された次の「ご褒美」に、拓斗は思わずガッツポーズをした。恥ずかしそうにしながらも考慮してくれる辺り、本当に蒼司は拓斗の御し方をよくわかっている。それとも単に、蒼司が拓斗に対して甘いだけなのだろうか。
  なんにせよ、ちょろいと言われてしまえばそれまでだが、魅力的な「ご褒美」の前では致し方ないだろう。今ならば高速で宿題を片づけられそうだと、拓斗は根拠のない自信を抱いた。
「ほら、休憩終わり。……続き、真面目にやれよ」
「うん、頑張る。……で、終わったらいっぱいいろいろしような」
「っ、拓斗……!」
  蒼司を笑って躱し、拓斗は再びペンを持つ。さて、今日のノルマが終わったときにはどんなことをして蒼司と楽しもうか。ご褒美に思いを馳せながらも、拓斗は一秒でも早く終わらせるべく、宿題の続きに取りかかった。