Please kiss me.


「……ねえ、ひでおさん」
  今にも押し潰れそうな感情を堪えて、享介はぽつりと呟いた。ふたりきりの静かな部屋。大好きなひとの部屋。俯いていた視線を彼の方へゆっくりと持ち上げれば、少しだけ緊張の見える面持ちで、どうしたのかとその人は答えた。
「俺たちってさ、……付き合ってるんだよね?」
  不安げに瞳を揺らしながら、享介はぼんやりと見つめる。視線の先にいる握野は少しだけ目を見開いて、しかし直ぐに口を開くと、当たり前だと言い切った。だというのに享介は、心の奥に広がる疑念を完全に拭い去ることができずにいた。
  そもそもふたりの交際が始まったのはふた月ほど前の話だ。何時しか好きになってしまっていた彼に享介から好きだと告げて、想いが受け入れられて。そのとき感じた胸の高鳴りは、今もなお色褪せることなく鮮明に思い出せる。だというのに、告白してから今日に至るまでの間、握野が享介に触れてくることは殆どなかった。
  しかし享介とて男である。それも十八歳――色恋沙汰に多少なりとも興味を持つ年頃の。本当ならば手を繋いで、キスをして、あわよくばその先も――。そう思うのに、握野は一向に触れてこようとはしない。時折何かに耐えるような、熱さえ籠っていそうな視線でこちらを射抜いてくる癖に、いつまで経っても恋人らしいことなど何もしようとはしてこなかったのだ。
  けれど享介は、日々募る不安感を抱えながらも、心情を吐露することだけは避けてきた。気に掛かりはすれども、彼を困らせることだけはしたくない。だから決して聞くまいと我慢してきた、自分の内に秘めておこうと決意していた心情。
  嗚呼、それなのに遂に言ってしまった。今すぐ「なんでもない」と、冗談だと言って誤魔化して、先の言葉を撤回してしまわねば。頭ではそんなことを考えているのにも関わらず、心はもう限界だった。コップに注がれた水が溢れてしまうように、享介の口からは自然と二の句が継がれる。
「……ひでおさんはもしかして、俺と付き合い始めたこと、後悔してる?」
「そんなわけないだろ」
「じゃあなんで、俺になんにもしてこないの?」
「それは……」
  享介が言い寄れば、握野は僅かに言い淀む。その様に、享介の心は鈍い音を立てて軋んだ。そうだ、やはりそうだったのだ。男で、しかも年下の自分と実際に付き合ってみて、きっと「何かが違う」と感じたに違いない。恋人らしい付き合い、というものができていたとは然程思えないが、恐らくはそういうことなのだろう。ずきずきとした胸の痛みを必死に堪えながら、享介は更に口を開いた。
「ねえ、俺とはなにもしたくない?  やっぱり俺じゃダメだった?」
「……享介」
「そうだよな、俺なんかじゃ……。俺だけが好きでも意味……っ、ないもんな……」
  知らず知らずのうちに享介の瞳には水の膜が張り、はらはらと頬を伝って零れ落ちる。止め処なく溢れる涙を止める術が分からないまま、享介はじっと握野を見つめた。
  ごめんなさい。そう、声にならない言葉を漏らす。享介は目の前の恋人へと手を伸ばし、そっとその頬へと触れた。そしてそのまま踵を地から離し、顔を近づけて、唇へと触れようと試みる。――だが。
「享介……!」
  握野の声で、享介ははっとした。享介の濡れた頬を包むのは、握野の大きな手のひら。そしてその衝撃で宙へと散ったのは、享介の冷たい涙だ。
「ちゃんと俺のことを見ろ、享介」
「……っ」
  頬を包まれたせいで顔が押さえつけられ、自然と握野と視線が絡む。射抜かれるような、強い眼差し。透き通るようなアイスブルーの双眸。視線を逸らすことなどできずに、享介は思わず息を呑んだ。
  そうしてふたりの間を流れる、暫時の沈黙。静かな時間を切り裂いて先に言葉を発したのは、握野の方であった。大好きな声でもう一度名を呼ばれ、そして彼の顔が享介の元へとゆっくり近づいてくる。享介は反射的に瞼を閉じた。
「……ん、っ……」
  唇に触れた感触で、握野に口付けをされたのだと、享介はすぐに悟った。子どもの戯れに等しい、触れるだけのキス。だが享介の感情を揺さぶるには、十分すぎるほどであった。徐々に頬へと熱が集まってくる感覚。きっと今頃酷く紅潮しているのだろうと、想像には難くなかった。
「ひ、でおさ……」
「不安にさせて悪かった。俺はただ、お前を大切にしたくて……いや、言い訳にしかならないか」
  言いながら、握野は享介の手をやんわりと握る。そして小さく息を吸うと、改めて口を開いた。
「ちゃんとお前のことが……享介のことが好きだから。だからもう、そんなこと訊くな。……分かったか?」
  握野の言葉に、享介は大きく頷く。漸く告げられた言葉を反芻すれば、享介の胸にはじわりじわりと温かな感情が込み上げてきた。一度は止まりかけたはずの涙が、再び瞳から零れ落ちていく。そして享介は温かな涙を湛えたまま、目の前の胸に勢いよく飛び込んだ。
「っ、ひでおさ……、ひぐっ……ひでおさん、俺……っ!」
「よしよし、……あんまり泣くなって享介。泣いた顔も悪くはないが、楽しそうにしてる方が、その……可愛いと思うぜ」
  隠すことなく嗚咽を漏らす享介の背に、握野は控えめに腕を回す。そして享介のことをあやすように、優しく頭を撫でた。触れた箇所から伝わる穏やかな熱と、温かな感情。再度実感した愛おしさに、享介の瞳からは一層涙が溢れるのであった。